二章 3

 次の日も、前日と同じで雲一つ無く晴れた良い天気だった。

 朝食には相も変わらずドライフルーツ入りのシリアルをお椀で二杯分しっかりと食べ。洗濯は昨日終わらせているので、今日は軽く掃除機をかけるだけでやる事が終わった。

 さて、今日は昨日に引き続き、杉村純也を捜す為の手掛かり探しに外出する予定だが、それまでの間だけでもと布団を干すことにした。

 窓を開け放ち部屋の隅に追いやられている畳まれた布団を持って、ベランダへと出る。道路に面しているとは言え所詮は二階、周りの建物が二階以上あるために視界はそれほど良くはないが。それでも西の方を見れば、富士山がはっきりと目に映るので、悪くない。

 ただ今は、さっきテレビに映った十駅以上離れた場所の辺りに向けて視線をやる。だが、普段と変わらない空が見えるだけだった。

 部屋の中から点けっ放しにしてあるテレビの音声が聞こえてくる。もう何度目かわからないアナウンサーの読み上げる同じ言葉が風や車の音も混じって頭にすーっと入ってきた。

「繰り返しお伝えしていますが本日午前七時三十五分頃、走行中の電車が脱線しました。通勤通学の時間帯と重なったこともあり、電車に乗っていた乗員乗客合わせて五十三人が死亡。怪我をした人も四百人を超え、搬送先の病院で治療を受けているとのことです」

 朝起きてから事故現場の映像も繰り返し見ているので、真ん中から折れ曲がった車両や、一部が潰れて変形した車両が目を閉じればスクリーンいっぱいに映し出される。それでもそれは、対岸の火事。そんな感覚でしかなかった。

 もちろん最初に聞いた時は驚いたし、映像を見せられたときは思わず声も出た。でも、普段使う路線じゃないからかすぐに他人事へと変わり、一時間くらい経った今では、繰り返される代わり映えの無い報道に飽きてしまってさえいる。

 だがそれに気づいた途端、罪悪感に似た気持ちの悪い苛立ちを覚え、布団を拳で殴った。

 部屋に戻りテレビを消して、開け放ったままの窓から入ってくる風に揺られるカーテンを見つめながら、やれることはないかと思案する。けど俺に出来ることは無い。そうすぐに答えが出た。

 突然だった。テーブルの上に置きっぱなしにしていた携帯電話がマナーモード設定によって震えて、普段の着信音よりも喧しく、誰からか連絡が来たことを教えてくれた。

 はいはいはい、と聞こえるはずも無い返事をしつつ携帯を取ると、画面には知らない番号が表示されていた。普段なら知らない番号は一回目の着信で出ないと決めている。押し間違いなら二度目は掛かってこないし、よほど急な用で無い場合もだいたい同じだからだ。でも、と。考えを巡らす事はしないで、今回は電話に出た。俺のそれほど数の多くない知り合いが、事故に巻き込まれた連絡ならば、出るべきだと思ったからだった。

 ただ、その予想ははずれ、はぁー、と。深い溜め息をつけるほどに安心感をくれる声が聞こえてきた。

『遅いわ』

 声の主は葉山美咲だった。

「学校はどうした?」

 すぐにそう返す。

『休みになったわ。まさか今起きた、とか言わないわよね?』

「言わない。…そうか事故で、か」

『そう、それで生徒や先生が巻き込まれたわけじゃないんだけど、電車が止まったから生徒や先生が多数足止めされたの。脱線した電車の路線で来る人達も多いから、私の通ってる学校』

「そうなのか」

 と、返事をしつつ彼女の方でも事故に遭った人が居ない事にホッとして、同時に彼女の通う学校の最寄駅も大体の予想がついた。

『それでなんだけど今から出て来れるかしら?』

「大丈夫だ、三十分も掛からないと思う」

 即答した。既に着替えは済ませてあるし、と。通話したままで大して干していない布団を雑に取り込み窓を閉め、鍵をかけてカーテンを引いた。

『駅から見えるから、場所は分かるでしょ?校門で待ってるわ』

 そんな返答で電話が切れる。

「具体的な場所を言わずに切りやがった。わからなかったらどうするつもりだ?」

 そう文句言いつつ、どうせ、と思いながらわざわざ声を真似て呟いた。

「言わなくてもわかるでしょ?とかだろうな」

 本当に信頼されてるな、頭の出来だけだが。


 結局、学校に着くまでに五十分掛かった。

「遅いわ」

 髪を束ねる事をせず眼鏡もかけていない、ただベージュのブレザーを身に纏い、最初に出会ったときとパッと見で変わらない葉山美咲に、電話に出たときと同じ事を言われた。

 言い訳をすると、最寄の駅までは予想通り二十分くらいで着いたのだ。でも、まさか女子校が普通の学校と同じ見た目だとは思わず、駅から見えたおしゃれで目立つ建物を目指して歩いたら逆の方向へ進んでいた。最終的に交番で場所を教えてもらい倍近い時間が掛かってたどり着いたわけだ。

 そして、そんな言い訳をしようと思い口を開くと、何かを察知したのか、

「長くなるだろうから、駄目」

 と、言われた。間違ってはいないので、何も言い返すことはしなかった。

「ん?それ、怪我でもしたのか?」

 よく見ると彼女の右頬に大きめの絆創膏が貼ってある。

「あぁこれね。大丈夫よ。ちょっと切っただけだから」

 そう言いつつ絆創膏を左手で撫でた。

 傷が残らないことを願うが、それよりもさっきから視界の端で俺の集中力を削ぐ奴がいる。こっちを見ては来るがすぐに目を逸らし、喋り終わるのを待っているのかそわそわと落ち着きが無く、ふわふわでおっとりとしたイメージを抱かせ、葉山と同じベージュのブレザーを着ていた。そんな短い髪の女の子が気になってしょうがないので一応訊く。

「それでその娘が例の?」

「たった一人の信用できる友人なの、訳アリみたいに言わないで」

 別にそう言うつもりはなかったのだが悪いのは俺のほうなので、目線の高さが殆ど変わらないが、俺よりは背の低い葉山の友人に、「ごめん」と謝る。

「いえいえいえいえ大丈夫ですよぉー、謝らなくても。お名前で遊ばれなければ、おーるおっけーです!」

 話していたら気づかないうちに眠ってしまいそうな声で許された。イメージ通りにおっとりとした娘のようだ。

「藁谷真花(わらだに、しんか)です。しんかは真のお花で真花。どうぞ、よろしくおねがいします」

 名乗るのと一緒に深々とお辞儀をしてくれる。

 それに対して俺もついつい釣られて、

「品里学です。こちらこそよろしく」

 そう言いながらお辞儀をしていた自分の行動に苦笑する。もちろん心の中でだが。

「えっと、まなぶってどんな字ですか?」

 挨拶の流れ的には普通の事だが、俺の場合は名前より名字を訊かれる事が多いので少々驚いたが、二度目なので特に悩まず彼女の後ろにある校舎を指差して、教えてあげる。

「学校の学、その一文字でまなぶだよ」

 そんなやりとりを見ていたはずの葉山は何事も無かったかのように、真花ちゃんに昨日話していた噂の事を訊いた。

「真花、さっきの話をもう一度してくれる?」

 返事の代わりに力いっぱい頷いたのだろう、その勢いでバランスを崩しかけて葉山に支えられながら、「えっとねー」と、話し始めた。

「十年位前かなぁ?誰だかわからないんだけど大人が数人、何故だか暴れるわたしを囲むと押さえつけて、その中の一人が言ったの。「長い長い夢を見るだけだ。起きたらお前はお前ではなくなるけど、それがお前だ」。とかなんとかかんとか言われて、それから夜眠るのが怖かったなぁーって思い出なんだけど、これが何かの役に立つの?」

 役に立つかどうかはわからないが、昨日聞いた話とは全然と言っていいほどに、違うものだった。確か、噂とか都市伝説じゃなかったか?と、疑問に思い。葉山の腕を軽く引っ張ると、真花ちゃんと距離をとって口元を手で隠し耳打ちした。

「犯罪の話にしか聞こえなかったんだが、噂話とかじゃなかったのか?」

「私もそう思ったわ、だからあなたを呼んだのよ。去年の夏に聞いたのは、噂話として脚色されてたらしいわ。真花によってね」

 その彼女の返答は、呆れ果てた力の無い声で耳に届いた。

 それでか、と。作り話のような感覚を覚えた事に納得がいく。つまりはこの話があれの原型となったわけだ。随分と脚色したもんだ、と感心する。まぁでも、気になることが無かった訳ではないので、それについて真花ちゃんに訊いてみる事にした。

「いくつか訊きたい事があるんだが、いいかな?」

「どぞどぞ、いいですよ?えんりょなく!ただ、この後予定があるので手短にねがいます」

 すぐに返答をくれるのはありがたいが、どうも彼女のペースに乗せられ、翻弄されているように感じてしまう。まぁでも葉山が信用できるというのだから、少々癖があるのは仕方が無いと割り切って話を進める事にした。

「じゃあ遠慮せず。真花ちゃんを囲んで押さえつけた大人達の服の色って覚えてる?」

「黒かったかなぁ?葬式みたいだって思ったから」

「それは全員?」

 前にゲームセンターで葉山に言われた事だが、確認はちゃんとするべきだと考え細かく訊いていく。

「全員だった。全部で八人、ちなみに女の人も一人いたよ?」

 へぇ、と思わず声が出る。もちろん女性が居たこともだが、次に訊くであろうことにも答えてくれた、それに少し驚いたのだ。

「ありがとう、それじゃ次だ。囲まれて押さえつけられて、その後はどうなった?」

「さぁ?十年くらい前でまだ七歳になったばかりだったからなぁーおぼろげでよくわかりません!もちろんエッチなことはされてませんよ?しょじょですし!まだまくありますし!」

 そんなに力強く否定しなくても良いと思うが、葉山に言われたとうりで普通に処女って言葉が出てくるんだなと少し驚き、確認したのか?と訊きたくなった。もちろん訊かなかったが…。ただ、それ以外のことは何もわからなかった。彼女がわからないと言うなら、それはわからないのだろう。ならば次の質問で最後にする。

「ありがとう、次で最後だ。黒頭巾の話は知ってるか?」

 と、訊いた所で突然会話に割り込まれた。

「黒頭巾って何の話?」

 声は女性で俺の後ろから聞こえた。誰かと思い振り向こうとするが、それより先に葉山がその人の名前を呼んだ。

「今は邪魔しないで欲しいわ、能島先生」

 その名前に鼓動が跳ねる。半年前、捜しても見つからなかった人の名前だった。そもそも今日行く予定だった懐かしの男子校での目的の一つでもある。でもそれは一番期待していない事だった。去年、移った学校がどこか訊いても知ってる人が誰も居なかったからだ。

 その人が俺の振り向いた先に居た。

「え、品里君?随分大人っぽくなったね」

 突然の事に驚いたのはどうやら向こうも同じだったらしいが、言葉とは裏腹にあまり驚いていないように見える。これが大人の余裕か。

「っぽくは余計だ。先生こそお変わり無い様で」

 軽く、そう返した。

 お世辞じゃない。本当に記憶の中の能島繭子先生と、髪型と服以外何も変わっていない…と、思う。まぁもう七年も前だ。俺の観察力不足か、彼女のメイクの腕前が差異を感じさせない要因だろうと思う。

「あら、ありがとう。そういえば今は何してるの?情報系の大学に進んだんでしょ、確か」

「おかげさまで、無事卒業して就職もしました。色々あって今年からフリーターになりましたけど、それなりに楽しんでます」

「フリーランスじゃなくて?」

「じゃなくて、フリーター」

 この人と話していると高校時代を思い出す。時々クラスの連中に混じってゲームを一緒に遊んだこともあった。よく考えればあれは純也の差し金だったのだろう。生徒と時には遊ぶ事もある、それは良いカモフラージュになったはずだ。

「それに先生と違って、時が経てば人の立場は変わるものだ。良くも悪くもな」

 なんで?と、訊かれる前に、先手を打ってお返しとばかりに嫌味なことを言った。

「それに、って何よ?私だって人よ、人。これでも休みじゃなかったら、今日も午後の六限で葉山さんのクラスの生物を教える予定だったし、藁谷さんのクラスを受け持つ担任でもあるのよ?」

 それを聞いて、そういえば純也がそんなことを言っていたなと思い出す。そして本来の目的である純也の事について訊く為に口を開こうとした時だ。

「まぁそれで、品里君はどっちと付き合ってるの?」

 唐突な能島先生の一撃は、え?とか、は?とかそんな間の抜けた返事を俺や葉山にさせるには充分な威力があった。が、しかし、

「え、嘘……でしょう…?」

 と、俺たちと同じような反応を見せた能島先生の方が突拍子もなくて一番驚いた。

 ただそれは、先生の視線の先に元凶はあり、そちらを向いて見れば一目でわかる。

 藁谷真花が右手を控えめに挙げていた。それが、この場に置いては最高威力の爆弾になりえる代物だと瞬時に判断した俺は、先手を打つ。

「俺は真花ちゃんと初対面だ」

「あ、そうなんだ。じゃあ、やっぱり」

 と、今度は安心した様子で能島先生の視線が葉山に移った。その直後、待っていたかのように否定の言葉がすぐに並ぶ。

「違うわ。私にとんだナンパ野郎と付き合う趣味は無いわ」

「おいおい…」

 と、呆れ交じりに、とんだナンパ野郎の部分について反論しようとした。そこでズボンのポケットに入れた携帯電話が震えて邪魔が入る。今日はどうも間が悪い事象に振り回される日らしいな。と、電話に出た。

「はいはい、店長。なんですか?」

『品里、お前今から店に出てこれるか?』

 電話の向こうから聞こえてくる店長の声は、普段と同じく勢いはあったが、いつもより暗い、そんな気がした。だから新歓以来、それなりにフランクだった対応を止めて真面目に答える。

「出れます。二十分も掛からないと思います」

『助かる、それじゃ待ってる』

 店長の声が遠ざかるのを感じて、別に慌てる必要なんて無かったが訊いていた。

「何があったんですか?」

 その問いは沈黙をもたらした。だが、それは長く続かない。答えが返ってくるまでに、少しの間を与えたくらいだ。

『霧海のお兄さんが亡くなった。五号にも連絡するから切るよ?』

 珍しくゆっくりとした口調で返ってきた言葉に、「はい」と俺が答えて、通話が切れる。

 別に真花ちゃんや先生には後日、改めて話を聞けばいいだけだ。今はあれこれ考える事はしなくていいだろう。

「すまんが葉山、あとは任せた」

 と、手短に済まして駅へ向かうために走り出そうとした。だがそれを、誰かが俺の左腕を掴んで止めた。そして俺が振り向くよりも、苛立ちから声を上げるよりも先に、葉山の言葉が突き刺さる。

「あなたが焦ってもしょうがないでしょう!」

 周囲に居た人が一斉にこちらを見るほどに鋭かったが、決して大きな声ではなかった。

「私も駅まで一緒に行くわ。だから少し歩きましょう?」

 さっきの言葉に続けて、今度は優しくそう言われたからか、少し落ち着けた。

「悪いな葉山。昨日の今日で、また…」

 二日連続で焦り、事を急いたのを謝る。

「別にいいわ。でも、もう止めてくれると助かるわ。頭が良くても馬鹿なのは困るのよ」

 と、掴まれていた腕が解放されたが、俺は苦笑するしかなかった。

「真花ちゃん、今日はありがとう」

 言い忘れていたお礼をちゃんと口にしておいた。

「いえいえ、それとですね」

 そう言いながら隣まで来ると、制服のポケットからデフォルメされたキャラクターの描かれた正方形のシールを手渡され、俺が葉山にやったように手で口元を隠して耳打ちでさっきの返事をくれた。

「良い質問でした。これはお礼です。そして『くろずきん』知ってます。それに私のお話は同じだとも思いますよ?くろずきんと、名前が違うだけで」

 最初に質問した際の返答もそうだったが、この子は随分と人の思考を読むのが得意なんだろうと思う。だから背中を向けた真花ちゃんにおまけで一つ、小声で訊いた。

「見えたのか?」

 その声がちゃんと届いたのか彼女は振り返ると、今度は口元を隠す事なく答えてくれる。

「あなたがおふねで渡って、じごくにたどり着ければ」

 返ってきた言葉に首を傾げたくなる。それが俺にとっての見えない断片になり得るのか、正直言って判断が難しい。

 そもそも、「同じだと言った根拠と、それに付随して見えてくる黒頭巾の正体は?」と言う意味で訊いたつもりだったのだが、ちゃんと伝わっていたのか不安に思いつつも、一応お礼を言っておく。

「あー、っと、ありがとう?」

 それから手渡されたシールを確認すると、蝶と蛙の合体した『スーパーカエル』なるモンスターが描かれており、あまり可愛いとは言えない見た目をしていた為に、お礼とは到底思えなかった。

「それじゃ、また今度」

 色々と疑問を残しつつも、そう能島先生と真花ちゃんに挨拶をして、俺は葉山と歩き出す。二人にはまた来週にでも会えばいいし、それまでにさっきの言葉を頭の隅にでも置いといて、何も思いつかなければ改めて訊けばいい。二人とも幸いにも事故には巻き込まれなかったのだから。


 まだ普段なら午前の授業を受けているはずの時間だ。それなのに女子校に通う生徒と街中を並んで歩く。そこに少しも罪悪感や背徳感を抱かないというのは、悟りでもひらかない限り無理だろうと思った。

 学校から駅までの道を少し進んだところで、正面を向いたまま俺の左側を歩く彼女は、いつもより優しいトーンで話し始めた。

「映像っていうのはそれだけで、感動だったり怒りだったり恐怖だったり色々な感情に訴えかけるようなものになるのよ。でも、それは一定なの。どんなに些細な出来事でも、どんなに大きな出来事でも、一旦情報化されてしまえば真実ではなくなる。伝える側が好き勝手に取捨選択した結果生まれる、平均的な事実になってしまうわ。

 だから、割り切りなさい。そして当事者と話すときに心無い言葉をかけてしまわないように注意すればいいのよ。そうでなければ、あなたまで深い傷を負うことになるわ」

 突然何の話かと思ったが、葉山は俺が朝に見たテレビの映像を深くは考えるな、と。そう言いたいらしい。でも、と。俺は納得がいかず訊き返していた。

「つまり痛みを必要以上にわかろうとするなってことか?」

「そうね、痛みや苦しみって言うのは原因を取り除いて癒えるのを待つことしか出来ないものなのよ。例え痛みや苦しみがわかったとしても、その時には自分も相手も地獄の底。だから、私やあなたのように当事者ではない人間が出来るのは、蜘蛛の糸をたらしてあげる事だけだわ」

 冷たいな、とも思ったが、純也も「優しくはなれず臆病になってしまった人に手を差し伸べてあげてくれ」と言っていたな。と、それと重ねてみればなんとなく分かる気がして、肩から少し力が抜けた。

「なんか俺は、お前に諭されることが多いな」

 その言葉が飛んできた事が意外だったのか葉山は歩調を速めて俺の前に出る。

「そうかしらね」

 嬉しそうに彼女はそう言って、背中を見せたまま左手を俺の方へ軽く差し出してきた。手を繋ごう、そんなとこだろうか?だが、それだと一つ気になることがある。

「捕まらないか?」

「大丈夫よ、堂々としていればいいわ」

 堂々としていれば、か。つまり怪しくはあるわけだ。

 まぁいいか、と。今度は俺が歩調を速めて手を取り彼女の横に並ぶ。繋いだ手はしっかり握り返されて、たぶん駅まで離してはもらえないのだろう。

 背は俺より高いのに、手は彼女の方が小さく柔らかい。

 そしてさっき腕を掴まれた時は気づかなかったが、俺の事をあれだけ諭したくせに、彼女の手はとてもとても冷たかった。

「ありがとな、美咲」

 その呟きは、たぶん届いた。

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