二章 1
十二時を過ぎた頃、俺は電車に揺られていた。
今日は日曜で学校は休みだ。なので、そちらは明日に回して杉村純也の実家に行くことにした。そこは俺の住んでる場所の最寄り駅から電車を乗り継いで二十分の所にある。都会にしては緑の豊かな住宅街だったと思うが、なにせ直近で行ったのが去年の冬で葉は既に落ちており、緑は大して無かったのだ。最近ではそちらの方向に行く機会もなく、最後に緑が印象付けられたのは高校か大学時代、そのどちらかだろう。ただ、どちらにしても別に支障はない、道は覚えている。家のすぐ傍に公園があり目印にも困らない。
なのに去年行った際は少し迷った。杉村の表札が無かったからだ。
道も場所も覚えていて、「杉村」の家があるはずの場所にあったのは、「葉山」という表札の家だった。いつだか、「暇だからと作った」そう言っていた変身ヒーローの置物が無くなっていたのと、玄関の傍に置いてある自転車の彩が豊かになっていた以外は、家の色も形も以前来たときと同じで、気になるような変化はなかった。
マンションの時もそうだったが、覚え違いの可能性もあると考えて、今度はインターホンを鳴らす前に周辺の表札を全て見て、「杉村」という家が無い事を確認した。
ならばと、インターホンを押して出てきた人は俺も良く知る純也の母親だった。見知った顔が出てきてくれたときはホッとした。だが、すぐにそれは裏切られた。
俺が挨拶をした純也の母親は、「どちらさまですか?」と返事をして、俺のことを覚えてはいないようだった。
その事に戸惑いながらも、俺は言った。
「息子さんに会いたいのですが…」
すると少々怪しまれ、「あの、家を間違えてませんか?」と返され続けざまに、「子供は居ません」。そう拒絶された。
「そうですか、それですみませんがこの辺りに杉村って家はありますか?」
念の為に訊ねてみたが、結果は純也の住んでいたマンションの時と同じだった。
「聞いたこと無いですね」
冷たく早口で言われて、ドアを閉められ鍵をかけられた。その場で通報されなかっただけマシだと思い、それでも収穫はあったと、そのまま帰ったのだ。それ以来になる。
あの時の俺は捜すものを間違えていた。杉村純也を捜したってどうしようもないのだ。探すべきは杉村純也に何れ繋がるものだった。今回はそれを踏まえて訊くつもりだ。
考え事に集中していた為か、乗り換えも含めてあっという間だった。気がつけば目的の駅に着いていて、慌てて電車を降りる。
改札を出ると駅の時計を確認した。予定通り十二時半を過ぎたところだった。目的地にたどり着く頃には一時近いだろう。
道すがら少し足早に歩きながらも思考を止めることはしない。店長はゆっくりでも良いと言ったが、だからと怠けていいと俺は思わない。時間というのはどうしたって有限なものだからだ。まぁ、これからやろうとしてることが、どうしても時間の無駄が多いことなので、焦る気持ちもあるのだが…。
そう言えばと思い出す。杉村純也の実家だったはずの場所から駅まで戻る間、やけに花見という単語がチラついたのは何だったのだろうか?冬だったので花見など出来る季節ではなかったはずだ。今、歩いている商店街にもそれらしいものは見当たらない。他に何か花見を思わせる物でもあったか?などと、あれこれ考えを巡らせている内に商店街が終わり、木々の多い住宅街に入っていた。
記憶違いではないと少し安心する。やはり都会にしては緑が多い場所だった。
でも、その木々は梅や桜と言った花見の出来るようなものではない。葉の形からして銀杏だと思う。と、言うのも俺は木に特別詳しいわけじゃないからだ。たぶん銀杏だろう、その程度しか自信は持てない。ただ、そうだとすれば花見には向かないことが分かるので、今はそれだけでも十分だとも思った。
ふと、次々に後ろへと流れて行く並木道の景色に、少し急ぎすぎているか?と考えがよぎる。一旦速度を落として携帯で時間を確認するが、意味の無いことだとすぐにしまった。
幾ら急いだところで問題は無い。むしろ遅くなればなるほど最悪の結果が待っていると言っても良いからだ。
俺が今日やろうとしていることは張り込みだった。
家の近くに中規模とは言え公園もあるので、長時間居ても周辺をうろつくよりは怪しまれないだろう。そして話を訊くのは大人にではなく子供に、である。
子供と言っても近所の子供じゃない。そんなことをしたら下手をすれば交番どころか警察行きだ。それはご免蒙りたいので違う。葉山の家に居るであろう純也ではない子供だ。
一つ、前回来た時に得られた断片から推測出来るものがある。息子は居ないが、娘は居るかもしれないという事だ。
なぜかと言えば俺の「息子に会いたい」という問いに、純也の母親は「家を間違えてませんか?」と返した後に続けて、「子供は居ません」とも言ったので、娘なら居るかもしれないと考えた。
ただ、純粋に言葉だけで判断するのなら、とっさに出た嘘や子供自体が居ないことは充分にありあえる。だけど、そうでないと思う理由は子供が居ないという拒絶だ。
咄嗟に子供という単語を使って拒絶するということは、当たらずといえど遠からず、そんな問いかけだったからだろう。つまり、自分の知らない怪しい男が居もしない息子を訪ねてきたが、本当は娘を訪ねてきた。と、思ったかもしれない。まぁこれだけじゃどんなに頑張って知恵を絞ったとしても幾つかの推論を立てて終わるのが関の山だ。
結局のところ張り込んで確かめるしかないのだが、一つ気になることがある。それはさっき思い出した花見だ。この事とは関係ない可能性もあるが、無いとも言えない。
半年前の事を思い返している途中で、ふと考えが浮かんだのだ。それを確認出来れば…と、いつの間にか俯き加減になっていた視線を正面に戻す。ちょうど公園が見えてきていた。とすれば純也の実家はすぐそこだ。
約半年ぶりに訪れた公園の賑やかさに、俺は驚き足を止めた。公園自体は住宅街にある為か、電話ボックスが設置されてはいるが大した広さは無い。五段階で表すなら二か三くらいの広さだろう。にも関わらずだ。パッと見で、三十人以上の親子連れで賑わっていた。
確かに遊具がそれなりに置いてはある。でも、祭りやイベントが行われているわけでもないのに、この人数は多い。と、そう感じた。
ただ、だからと言って困ることはない。むしろ、これなら良いカモフラージュにもなるだろうし、張り込みにはもってこいのはずだ。
驚き一旦は足を止めたが、目的地には着いた。だが、まだ公園には入らない。先に確信を得ておきたいからだ。
公園からも出入りが見える場所の角地にある二階建てで赤い屋根の一戸建ては、相変わらず住宅街の中でも浮いていた。
「両親が昔見た映画かなんかに影響されてその色にしたんだ」
と、俺が最初に家を訪れたときに純也が愚痴っていたが、
「外壁の色も相まって「キノコハウス」って呼ばれるんだぞ?勘弁してくれ…」
あの本気で頭を抱える純也はとても頭が良い人間には見えなくて、そのギャップで思わず笑える話だった。
俺は基本的に掃除を面倒だと感じる人間なので、一生一戸建てに住むことは無いとは思うが、もし住む事があるのなら屋根と外壁の色は気にしたほうがいいのだと、その時に学んだわけである。
まぁ今問題なのは屋根や外壁の色ではなく自転車の色だ。花見と言えば梅や桜だが、それ以外にも関係するものがある。花見と言えば、花より団子。だからと言って、別に食い意地がどうのと言う話ではない。重要なのは色の部分だ。
家の前まで来た俺は、どれどれ、と、周りに誰も居ないことを確認してから敷地の外から見てみる。玄関の傍のスペースには、半年前と変わらずピンク、白、緑の順で大人用の自転車が三台置いてあった。団子と言えば三つ以上串に刺さっている事が多い物だが、その中でも桃白緑の順で串に刺さった団子をお花見団子と言うらしい。大学時代に純也と暇つぶしに色の組み合わせで連想ゲームをやった時に知った事だった。
「やっぱその色だよな」
と、頷きながら呟き、Uターンをして公園まで戻る。
余程の自転車好きでない限りは三人家族だろうと言う事がわかった。これで少々の安心の中で張り込みが出来る。あとは子供が引きこもり思考ではない事を祈ろう。
公園まで戻ってくるとやはりベンチは空いてなかったので、適当な木に背中を預けた。それから肩に斜めでかけてきた少し大きめのショルダーバッグを開くと、暇つぶし用に何冊か持ってきておいた文庫本を一冊選び取り出す。それはミステリーを読み始めて最初の頃に気に入って何度も読んだ作品で、今回の張り込みもこの本を読んでいたから考え付いたようなものなので、ちょうどいいだろうと思ってのことだ。
あとはここでのんびりと、物語の世界に片足を突っ込みながら、家から子供または両親が出てくるのを待つだけ。そう思いつつ顔を上げると、俺の視線が三十センチも行かない所で遮られる。心臓が止まるかと思った。つい最近も着ぐるみのせいで止まりかけた心臓だったが、こうも頻繁に驚かされていると、いつか本当に止まりそうである。
俺の心臓を止めかけ視線を遮った張本人は、ニコニコとした表情に似合わない冷たさの感じられる声音で挨拶をくれる。
「こんにちは、それともごきげんようの方が良かったかしらね?とんだナンパ野郎さん」
「相変わらず酷い言われようだ。店からつけてきたのか?」
彼女の言葉には動じる事無く対応出来ただろうか、少し気になるがそれにしてもと思う。
彼女との距離が近すぎる。一歩引いて距離を空けたいが、木を背にしているのでこれ以上は下がれない。さらに彼女の目線の高さがこの前より十センチ近く高いため、目の前は言わずもがな。俺はどうしたって目を泳がさざるを得ないのだ。
ふふっと楽しそうな笑みを浮かべ彼女は俺に背を向けると、
「半分正解だけど違うわ」
そう言ってから三歩前に進んで距離を空けてくれた。
それから着ている服を見せびらかすようにゆっくり一回転半回って見せ、「どうかしらね?」と感想を訊いてくる。
この前と同じで軽くウェーブのかかった黒と見間違えるほどの茶色でセミロングの髪は、ヘアゴムを使い後ろで一つにまとめて結ばれており、それに加えて今日の彼女は黒縁で細いアンダーリムの眼鏡をかけているからか、以前の私服より大人の雰囲気が感じられる。
ただ、少し視野を広げて全身を見れば、胸元が少し開いた膝下まで丈のある袖なしの黒いワンピースも、腰のリボンや多めのギャザーが目立つデザインだからだろう。どこか幼さを感じさせ、更に厚底のサンダルには黒い蝶があしらわれているので、全体的に見れば、歳相応の可愛らしさと美しさを最大限表現できていると思った。
「似合ってる」
と素直に褒めてみたが、一つ気になる部分があるので、「だけど」と付け加える。
「あんまり高いと男が泣くぞ?」
「それは大丈夫だと思うわ」
「どうして?」
思わず訊き返した。
その言葉に彼女は相変わらず楽しそうに、今度は小悪魔的を加えた笑みを浮かべ答える。
「自分より背の低い男の子を食べてしまえるのは快感だから…なんて、冗談よ」
性質の悪い冗談だった。鼓動が途中で加速するのを感じた事を酷く反省するべきだろう。もちろん気取られたら何て言われるか想像するに容易いので、全力を挙げ平静を装った。
俺の中でそんなことになっているとは知らない彼女は言葉を続ける。
「今日の合コンには、背が私より低い人が来ないだけなのよ」
「ん?ちょっと待て…どういうことだ?」
彼女の言葉に俺は違和感を覚えた。と、言うよりも、さっきから既におかしかった。でも、だ。それはそれだけならどうでもいいことだと思ったからだ。
「お前、どこからつけてきた?」
彼女は「店からつけてきたのか?」という問いに「半分正解」と答えた。だから、俺はてっきり駅の辺りからだと勝手に思い込んだ。そして彼女は、「今日の合コンには」。そう言ったのだ。
彼女は、またなの?と呆れて、面倒くさそうに指で示して答えてくれた。
「そこの家からよ、自転車を見て立ち去るから何かと思ったわ」
そう言った彼女の指の先にあるのは、杉村純也の実家だった。だとすると、こいつの名字は…。
「そういえば名前、言ってなかったわ。葉山美咲(はやま、みさき)よ」
乾いた笑いが俺の口から勝手にこぼれた。
夏にはまだ程遠いが、日差しを避けるように俺と葉山美咲は、木陰にあるブランコへと移動して、周りの柵に腰を下ろした。
「品里学だ」
彼女なら知ってるだろうが、一応名乗っておいた。
案の定、「知ってるわ」と返ってきたので、分かりやすく脱力する。
そして彼女は、「それにしても」と、話を切り出した。
「どうして私の家を知ってたのかしらね?」
どうやら今度は俺が攻められる番らしい。諦めて変に怪しまれないよう素直に話すことにする。
「大丈夫、お前をつけたとかそういうのじゃない」
「どうかしらね、だって…」
と、疑いの目を向けられるが、先が読めたので割り込んで代わりに言ってやる。
「とんだナンパ野郎だから、か?違う」
「馬鹿ね」
ボソッと言われた。ほっとけ。
「偶然だよ。昔、親友がそこに、お前が今暮らしている家に住んでたんだ」
「ふうん、昔ってどれくらい昔なのかしらね?」
疑いが晴れるどころか、いっそう陰りを見せる。ただ、彼女に対して疑いを晴らす意味が、あまり無いように感じた。何故なら、いつ頃まで住んでいたかを気にしたからだ。
既に彼女の中では矛盾が生まれ、疑いが育ちきっているのだろう。だったら、どうせ信じないだろうが、濁さず言ってしまうことにした。
「たぶん、三年くらい前までだ。まぁ半年前って言った方が正しいと俺は思ってるが」
「それは…とても…おかしな話だわ」
合間で考えているみたいに途切れ途切れの返答は、俺の予想とは違うもので意外だった。てっきり馬鹿げた話と、一蹴されるものだと思っていたからだ。故に少し期待してしまう。
「いいわ、でも今は駄目。もう合コンに行かなきゃいけない。それで、夜の予定って空いてるかしら?」
今すぐにとはいかなかったが、願ってもない提案だ。断る理由は無く、即答する。
「空いてる。連絡先交換しとくか?」
夜に改めてということだったので、連絡先の交換をついでに申し出た。
だが、それに対して彼女は首を横に振って、
「それは出来ないわ」
と、答えた。
「なんだ?信用できない大人より信用できるんじゃなかったのか?」
冷静さを欠いていたのだろう。何故?と、理由を訊けば良いだけだったが、さっきまでの肯定から一変して、「出来ない」という言葉に何も考えず反射だけで、気づけば嫌味なことを吐いていた。
「信用できない大人より信用できるだけで、信用してるわけじゃないわ」
「さいですか」
彼女の対応は変わらない。だから俺はそう答えるしかなく、冷たいと思える言葉を、ただ聞く事しか出来なくなった。
「携帯を今は持っていないの、理由は察して、あなたなら出来るでしょう?」
苛立ちを抑え、素直に頷き、続きを聞いた。
「あなたの番号を頂戴、終わったら連絡するわ」
そう言って彼女は手帳の適当なページを千切ると、ペンと一緒に渡してくれる。俺はそれに自分の携帯電話の番号を書くと無言で返した。
「ありがと、たぶん八時から十一時くらいまでには連絡出来ると思うわ」
彼女は言いつつメモを受け取ると、手に持っている小さなカバンにしまって立ち上る。それから一つだけ言葉を残すと、背を向け公園から出て行った。
彼女の背中が見えなくなっても少しの間、ボーっと足元の砂以外には何も無い一点をただ見つめながら、ひたすらに反芻していた。
どれくらい経っただろうか。心のざわつきが治まり、その正体が焦りだと気付いた時。同時に彼女の冷静さが羨ましく思え、ここよりも小さな公園で愚痴を言うのにも勇気が必要だと返した彼女に、ずいぶんと信頼されていたことを知った。
「そのとおりだな」
俺は呟き立ち上がると、歩きながら空を見上げようとするのをぐっと堪えた。今は前を向いて向き合うべきだ。と思ったからだ。
そして、もう一度だけ彼女の言葉を思い出す。
「あなたは頭の出来が良いわ。だから…失望はさせないで」
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