第50話
*
夜。
教室は闇と同化している。窓の外では雨が降っていた。水滴という連続した存在によって、建物と空間は滑らかに繋がる。それに抵抗するように、規則正しく並べられた机と椅子。他者の存在は身近に感じられるが、物質的な隔たりは確実に存在する。
椅子に座り、月夜は本のページを捲る。
冷徹な瞳は、今は何も映していない。
文字の侵入さえ、その瞳は許さない。
存在するものを、そのまま理解するように、彼女の脳は情報を処理していく。
突然、窓の外で物音がした。
月夜は顔を上げ、そちらを見る。
フィルが窓を引っ掻いていた。
月夜は立ち上がり、窓を開ける。飛沫が室内に入り込んで、彼女の制服が少し濡れた。
「こんな天気なのに、どうしたの?」
室内に飛び込んできたフィルを見下ろして、月夜は質問する。窓をすぐに閉じ、同時に鍵もかけた。
フィルは身震いをする。リノリウムの床が水滴で濡れた。
「別に、どうもしない」彼は言った。「早く、月夜に会いたかっただけだ」
いつもリュックに入れてあるタオルを取り出して、月夜はフィルの身体を拭く。タオルはあまり大きくないから、水分を吸って、すぐに飽和してしまった。彼女は教室を出て、手洗い場でタオルを絞る。教室に戻り、再び彼の身体を拭いた。
「迷惑だったか?」
一通り身体を拭き終えたところで、フィルが言った。
「いや、特には」月夜は答える。「会いたかったと言われたのは、嬉しかった」
「身体が濡れていても?」
「拭けばいいだけだから、それを、迷惑だとは感じない」
「相変わらず、打算的だな」
「打算的?」
「いや、少し言い過ぎた」
「フィルの方こそ、私がこうすることを考えてから、ここに来たんじゃないの?」
月夜の指摘を受けて、フィルは口もとを持ち上げる。
「実は、そうだ」
「お互い様だね」
「ごもっとも」
フィルを連れて、学校の中を探検した。しかし、彼は特に興味を示さなかった。
「ねえ、フィル」廊下を歩きながら、月夜は質問する。「屋上に、何か、秘密があるって、知っている?」
素早く脚を動かしながら、フィルは答える。
「その秘密は、今はまだない。これから生まれるんだ」
フィルの言葉を受けて、月夜はすべて理解した。
「なるほど」
「でも、その未来は、もう起こりえない」
「うん……」
同所・同時の空間が複数存在する場合、互いにパラレルワールドと呼ばれるが、もしパラレルワールドが交差したら、フィルが言ったようなことが起こりえる。しかし、それは、起こるともいえるし、起こらないともいえる。そのどちらもが成り立ち、そして、そのどちらもが成り立たない。その相反する二つが、同時に起こる、とも言い換えられる。
「まるで、彼女みたいだな、月夜」フィルが言った。
「囀のこと、知っているの?」
「もちろん。俺が手引きしてやったんだからな」
「そういう人たちが、沢山いるの?」
「そうはいない。ルール違反だから、あまり表立たないようにしている」
「どういうときに、君は、それを許すの?」
「どうしようもないときだけだ」
「どうしようもない、とは?」
「仕方がないということさ」
「それは、分かる」
階段を上る。二階から三階に移動し、今歩いていたのと反対方向に廊下を進んだ。
「本当は、お前のためだったんだ」フィルは言った。「友達がいなくて、寂しかったんだろう?」
「私?」月夜は少し驚いた。「いや……。私は、全然、寂しくなんかなかった」
「俺がいるからか?」
月夜は彼を見つめる。
「そう」
「嘘さ。本当は彼が望んだんだ。お前に、会いたかったらしい」
「どうして?」
「願望に、理由は必要ない」
昇降口にやって来る。
上履きから、外履きに履き替えた。
しかし、そのタイミングで、月夜は、教室の傘立てに、長傘を置いてきたことを思い出した。
「傘、忘れた」月夜は言った。
「おいおい、しっかりしてくれよ」
月夜はもう一度上履きを履き直す。
「ここで、待っていてね」
「盆踊りでいいか?」
「その、舞う、じゃない」
「急いでいるときは、つっこまなくていいんだ」
月夜は小走りで廊下の向こうに消える。
フィルは、可笑しそうに、彼女の背中を眺めていた。
モノクロームの特異点 彼方灯火 @hotaruhanoue0908
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