第49話

 囀が月夜の傍に戻ってくる。


「そろそろ、帰る?」


 呼吸を整えながら、囀は月夜に尋ねた。


「囀は、どうしたい?」


「僕は……。うん、もうそろそろ、帰ろうかな」


「じゃあ、そうする」


 開いている裏門から、二人揃って学校の敷地から出る。


 目の前の線路を電車が通過した。


 踏み切りの音が微かに聞こえる。


 囀と、この道を歩くのは、久し振りだった。


 自然と、足取りが軽くなる気がする。


 駅の改札までやって来たタイミングで、囀は立ち止まった。月夜は後ろを振り返る。


「どうしたの?」彼女は尋ねた。


「僕は、ここまでだよ」囀は話す。「あとは一人で帰るんだ、月夜」


「どうして?」


 人通りの少ない上階の改札口に、二人の声が反響する。眼下にあるロータリーから、深夜バスの走行音が聞こえた。遠くの方で信号が光っている。


「僕は、これ以上いけない」


 月夜は完全に彼に向き直る。


「どうして?」


「お金を持っていないから」


「私が、君の分も払うよ」


「そういうわけにはいかないんだ」


「どうして?」


 囀は笑う。諦めたような笑いだった。


「ここから先は、君一人で行くんだ、月夜」囀は話した。「もう、僕は、いつでも君と一緒にいられる存在じゃない。君が本当に必要なときだけ、君の傍に向かう。連絡してくれれば、すぐに行くよ。でも、本当に必要なときじゃないと、駄目だ」


 月夜は彼を見る。


「本当に必要なときなら、必ず来てくれる?」


「約束する」


「本当に?」


「本当に」


 月夜は頷いた。首を上下に動かすだけでも、ある程度の意思が必要だった。


「分かった」彼女は言った。「じゃあ、またね」


「おやすみ」


 定期券を使って、月夜は改札を抜ける。後ろを振り返ったが、もう彼の姿は見えなかった。


 ホームに到着する。


 タイミング良く入ってきた電車に乗って、月夜は自宅に向かった。


 電車の中で、彼女は本を開いた。囀がいなくなってから、何度も同じ状況を経験したはずなのに、今夜は、一人で電車に乗っていることが、別の意味に感じられた。


 自分は……。


 きっと、囀にまたすぐに会えると、期待していたのだ。


 だから、その期待を頼りに、今日まで生きてきた。


 でも、これからは違う。


 もう、囀には、どうしようもないときでないと、会えない。


 それが辛かった。


 涙が出そうになる。


 こんなことは、初めてだった。


 彼女は、我慢できなくて、一粒だけ涙で頬を濡らした。


 温かい感触が皮膚を伝う。


 それだけで、大分気持ちが楽になった。


 最寄り駅に到着して、駅舎を出ると、フィルが待っていた。


「おかえり」彼が言った。「どうしたんだ?」


「何が?」


 月夜はフィルを抱えて、自分の肩に乗せる。


「頬に、乾いた跡がある」


「そう?」


「泣いたのか?」


 月夜は黙って頷く。


 街灯のない道を、一歩ずつ確かめるように前に進む。


 途中で、フィルが、月夜の頬を舐めた。


 乾いた塩水の通り道が、綺麗に消える。


 家に着くまで、フィルは何も言わなかった。


 リビングに入ると、テーブルの上に時計が置かれていた。以前月夜が買ってきた、黒猫の意匠が成されているものだ。しかし、今はその金属板が剥がされて、時計の隣に無造作に置かれていた。


 月夜は黒猫の飾りを手に取り、フィルに尋ねる。


「これ、どうしたの?」


 彼はソファに座りながら答えた。


「ああ、それ、やっぱり、あまりにも俺にそっくりだから、外してしまった」


 月夜は後ろを振り返る。


「君とそっくりだと、どうして、外す必要があるの?」


「自分に自分を見られているみたいで、嫌だから、かな」


 月夜は、もう一度手もとのプレートを見る。似ているとはいえ、瓜二つというわけではない。フィルの方がもう少しスマートだし、目つきが鋭い。


「自分に見られるのが、嫌なの?」


「いや、違うな……。……たぶん、自分で自分を見るのが嫌なんだ。俺が主体で、その猫が客体ということ」


「これ、どうするの?」


「お前が、リュックにでも付けておいたらどうだ?」フィルは笑いながら話す。


「ああ、なるほど」


 そう言って、月夜は金属板をブレザーのポケットに仕舞った。


 窓を開けて換気をする。停滞していた空気が、一気に流動し始めた。一緒に温度も流れていく。


 月夜はソファに腰かけた。


「時計は、このままでいいの?」


「もちろん」フィルは答える。「その時計自体は、なかなかのものだ。俺は気に入っている。ただ、その猫が駄目だった。画竜点睛のつもりかもしれないが、余計な点は、増やさないに越したことはない」


「じゃあ、フィルが、代わりに時計の上に乗ってみたら?」


「冗談が上手くなったな、月夜」


「冗談のつもりじゃないけど」


 フィルは首を何度か振る。


「じゃあ、病院に行ってこい」


「もう、閉まっているよ」


 いつも通り、風呂に入り、着替えて、自分の部屋に向かった。


 今日は疲れていたから、いつもより早く寝ようと思った。


 布団に潜り込む。フィルも隣に入ってきた。


「話したいことがあるのなら、俺が聞こう」


 天井を向いたまま、月夜は考える。話したいことはなかったが、訊きたいことがあった。


「ねえ、フィル」彼女は尋ねる。「私と君の関係って、何かな?」


 フィルは黄色い瞳を彼女に向ける。


「難しいことを訊くな」


「答えられないなら、それでいいよ」


 フィルは欠伸をする。


「まあ、同族ってとこかな」


「同族?」


「ああ、そうさ」彼は言った。「俺も、お前も、真っ黒だからな」


「何が?」月夜は訊き返す。


 フィルは答えなかった。

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