第48話

 本を仕舞って、二人で図書室を出た。校舎のほとんどの部屋に鍵がかかっているから、いつかのように、校庭に向かった。


 前来たときは雨が降っていたが、今日はよく晴れていた。月が見える。


 風は相変わらず冷たいままで、春の訪れは感じられない。もう暫くは、この気候が続くだろう。


 校舎の傍に、今は使われていない朝礼台があった。銀色だが、所々黒ずんでいる。


 囀はその一番上に、月夜は階段の二段目に座った。


 夜の校庭は、なぜかとても広大に見える。


 街の中にあるのに、ここだけ完全に隔離されているような、そんな不思議な感覚があった。


「ここの屋上に、どんな秘密があるか、知っている?」囀が突然言った。


「屋上?」月夜は振り返る。


「うん、ちょっとした、秘密があるんだ」


「どんな?」


「それも、秘密」


「どうして?」


「トップシークレットだからだよ」


 顔を前に戻して、月夜は黙る。


「囀。君が、どうして、ここの学校に転校してきたのか、教えてほしい」


 囀はすぐには答えない。


 彼が朝礼台の上に立ち上がる気配があった。


「こうやって、少し高さが変わっただけでも、世界は広く見えるものだね」彼は話す。「学校の屋上となれば、世界そのものが見渡せるかもしれない」


 月夜は彼の言葉を分析しようとする。しかし、情報が不足していて分からない。


 囀は再びしゃがみ込み、背後から月夜を抱き締めた。


「君に会いたかったからだよ、月夜」囀は言った。「それが真実なんだ」


 月夜は俯く。


 彼の吐息が感じられた。


 生きている証。


 存在しなくても、存在する証を持っている。


「小夜のこと、知っているの?」


 囀の髪が月夜の頬に触れる。彼は頷いたみたいだった。


「僕が存在できているのは、彼女のおかげなんだ」


「防ぐことはできない?」


「それはできない。しちゃいけないことになっている。この世界の、ルールとしてね。君だって、それを承知のうえで、彼女に手を貸したんでしょう?」


 月夜は頷く。


「じゃあ、それでいいんだ。それに、君が彼女を救ってしまったら、僕がここにいるのがおかしいことになる」


「うん……」


「君は何も気にする必要はないよ。すでに、未来は変更されているし、君には変えられない。僕と君が出会えたのは、運命なんだ。本当は、起こるはずがない、けれど起こってしまった、説明のつけようがない、運命」


「少しだけ、寂しい」


「僕もだよ。でも、それが、最善ということだよ。完全ではないんだ」


「うん」


「分かった?」


「分かった」


 囀は月夜から離れる。


「もうすぐ、試験みたいだけど、勉強は大丈夫?」囀が質問する。


「うん、たぶん」月夜は答えた。


「試験ってさ、一生懸命勉強しても、本番は、どうしても緊張しちゃうから、嫌だよね」


「緊張しない練習を、しておけばいいと思う」


「そんなことまでしているの?」


「いや、していない」


「緊張しない?」


「私は、しない」


「へえ……。いいなあ、そういう人は……」


「囀は、緊張するの?」


「するよ。もうね、どうしようもないくらい、緊張する」彼は言った。「大変なんだから。手が震えちゃって、お腹が痛くなって、それで、焦りがさらなる焦りを引き起こして……」


「試験の度に、いつも、緊張するの?」


「うん、する」


「それは、たしかに、大変だね」


「そうだよ。嫌になる」


「でも、緊張するのは、本気になっている証拠だって、先生が言っていたよ」


「どの先生?」


「体育の先生」


「誰だって、体育の教師は、そう言うものだよ」囀は笑った。「そういう問題じゃないんだよね……。だって、本気になっていても、緊張しない人だっているわけだし……」


「囀は、本を読むときは、本気だよね」


「え、そう?」


「そんな感じがする」


「読書中は、緊張はしないかな」


「そのときの感覚で、試験に臨めば、いいんじゃない?」


「たしかに……」


 朝礼台から下りて、校庭を歩き回った。グラウンドの砂が、足を踏み出す度に音を立てる。土と砂、あるいは砂と靴底が生じる摩擦音で、聞いていて嫌な感じはしなかった。揚げ物を食べるときの音に似ている。


 陸上部が引いたと思われる白線が、一直線に向こうまで延びていた。囀はスタートラインにスタンバイし、自分のかけ声で走り出す。とても様になっている、と月夜は思った。彼は、基本的に、何でも上手くこなす。初めてのことでも、それまでの経験から似ているものを寄せ集めて、それなりの回答を導き出す。


 彼が走る速度は、速くも遅くもなかった。フォームはきちんとしている。


 囀が何度か走る練習をするのを、月夜は校庭の中心から眺めていた。


 スプリンクラーが、至る所に配置されている。


 遠くに鉄棒が見えた。


 人体を構成する組織のように、それらは一定の役割を担っている。


 その中に佇む自分たちが、一種のウイルスのように思えた。


 こんな時間に、こんな場所で、規則を破って活動している。


 組織に悪影響を及ぼすに違いない。


 しかし、今のところ、彼らを排除しようとする抗体は見つかっていなかった。

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