第42話

「何?」


 廊下に出て、窓の外を向いていた月夜に、囀が質問した。


 月夜は彼女を見る。


「ごめん」月夜は謝った。「何か、傷つけてしまったかもしれない、と思って」


「何を?」囀は笑った。「えっと、どういう意味?」


「うーんと……」


 月夜は必死に考える。けれど、何を伝えたいのか、自分でも分からなくなってしまった。いや、本当は具体的に伝えいたことがないのに、何かを伝えたいと、形だけを想定していたことを、今になって気づいたのだ。


 そのまま、月夜は沈黙する。


 囀は、表情を変えて、月夜の肩に触れた。


「……どうしたの? なんか、様子が変だけど……」


 月夜は自分でもそう思った。


「ごめんね」月夜は言った。「自分でも、何を言いたいのか、分からない」


 囀は月夜を見つめ、目を細めて上品に笑う。


「うん、いいよ。そんなの、よくあることだし」


「そうかな」


「うん、そうそう。僕なんて、しょっちゅうそんな感じだよ」


 室内と外気の温度差で、廊下の窓硝子は濡れている。二人の吐息に含まれる体温が、空気中の水蒸気を水滴に変化させる。


「本当は、囀に、あんなことは言いたくなかった」月夜は説明した。「私が指図をするようなことじゃなかった。でも……。なぜか、そうしようと、思ってしまった。だから、それを謝りたいんだと思う」


 囀は話さない。


 月夜と一緒に、窓の外に目を向けていた。


「私は、いつも、自分の衝動に突き動かされて、行動してしまう」


 囀は少し笑った。


「月夜が?」


「そう、思わない?」


「うーん、どうかな……。そう言われてみれば、そんな感じもするけど、月夜に対する印象は、少し違う気がするよ」


「じゃあ、どんな感じ?」


 囀は暫くの間黙る。


 それから、愛らしい口もとを動かして言った。


「真摯、かな」


 月夜は首を傾げる。


「真摯?」


「うん、そう」


「どういうところが、真摯?」


「僕の意見を聞きたがるのも、珍しいね」


「そう?」


「いや、ほかの人からは、あまり求められたことがない、と思ってね」


「私は、もう少し、周りの人を頼った方がいい、と言われたことがある」月夜は話す。「だから、囀に、訊いてみようかな、と思った」


 囀は終始笑顔だ。


「月夜は、自分にも、他人にも、真摯だよ」囀は説明した。「どちらかに傾いているわけじゃない。自分の衝動に突き動かされて、行動してしまうって、さっき言っていたけど、その目的は、自分の願望を叶えるためだけじゃないでしょう? 他人のことを思って、そうしたい、と感じるんだから、自分がよければいい、という感情ではないと思うよ」


「でも、そうやって、他人を助けた結果、自分は、気持ちの良い思いをするわけだから、結局は、自分のことばかり、考えていることになるんじゃないのかな?」


「今日は雄弁だね、月夜」


 それは月夜も感じていることだった。自分は、今、囀とコミュニケーションをとることを望んでいる、と思う。


「私は、今日は、雄弁みたい」


 特に間違えた指摘だとは思えなかったから、月夜は肯定した。


「そういうところが、真摯だって思うんだよ」


 月夜は首を傾げる。


「あまり、自分のことを意識しすぎない方がいいよ」囀は話した。「不安になるだけだから……。……僕も、月夜に出会って、少し変わったんだ。自然と、君のことを考えるようになった。月夜にどう思われたいか、ということばかり考えていたけど、そんなことは、どうでもいいって、思えるようになったんだよ。もっと、月夜と一緒にいる時間を、大切にしようと思ったんだ。うーん、ちょっと、上手く説明できている気がしないけど……。とにかく、不安は少ない方がいい。僕が言えるのは、それだけかな」


 言葉の一つ一つの意味を考え、次にそれらが合わさって作られる文の意味を考えて、月夜は囀が言ったことを適切に理解しようとする。


 なんとなく、分かったような気がした。


 だから、彼女は、頷いた。


「大丈夫?」


 囀が尋ねる。


 大丈夫だとは思えなかったから、月夜は首を振った。


「まあ、いいよ。もう、終わったことだしさ」囀は話す。「月夜が、まだ、考え続けると言うのなら、僕は止めないよ」


「うん……」


 予鈴が鳴り、二人は教室に戻った。次の授業は現代文だから、部屋を移動する必要はなかった。


 授業を受けながらも、月夜は、先ほど囀が言ったことを、何度も頭の中で繰り返していた。話の意味は分かったが、彼女がそう説明するに至った経緯を考え出すと、不可解な点がいくつも見つかった。だから、今度はそれを一つずつ検証していく。


 でも……。


 自分と、一緒にいる時間を、大切にする?


 その言葉が妙に引っかかった。


 月夜は、いつも、周りの存在と、そうしてこなかった気がする。


 それが、少しいけない気がした。


 その言葉が印象に残ったのは、それが自分に足りていないからだ。


 囀の席を見る。


 彼女は、今は顔を上げて、教師の板書をノートに写している。真剣な眼差しではなかったが、集中して内容を理解しようとしているように見えた。


 自分は、囀という一人の人間を、しっかり見ようとしていただろうか?


 彼女を、何か一つの概念のように捉えていたのではないか?


 そう……。


 だから、モラルに反した彼女を、非難したのだ。


 でも……。


 本当は、そうするべきではなかったのではないか?


 概念のように抽象化することで、囀が抱える悲しみを、考慮の枠内から自然に排除していた。


 それが、いけなかった。


 それが、間違えていた。


 囀を囀として、自分と対等な存在だと認識することを、どこかで怠っていたのではないか?


 たぶん、怖かったのだ。


 彼女を自分と同じように扱うのが、怖かった。


 では、その恐怖は何に起因するのか?


 答えは一つしかない。


 それは、自分を信じていなかったことだ。


 それしかない。


 だから、自分を反映する鏡のような囀を、直視することができなかった。


 なんて根本的なミスだろう……。


 その時点で、すべてがずれていたのだ。


 すべての授業が終わり、放課後になった。月夜は、また今日も図書室に向かった。

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