第38話
「はい。月夜? 何?」
月夜はソファに腰かけ、彼女の声に応答する。
「こんばんは」
電話の向こうで囀は笑った。
「何それ。挨拶するために、僕に電話をかけてきたの?」
「違う」
「何か用事? ああ、僕なら、今、暇だから、大丈夫だよ」
「今日は、ありがとう」
「え、何が?」囀の動揺気味の声が聞こえる。
「買い物に、誘ってくれて」
「ああ……。いや、むしろ、僕が感謝する方だよ。君に、付き合ってもらったんだから」
沈黙。
「……月夜?」
「何?」
「聞こえている?」
「うん」
「それだけ?」
「え?」
「ありがとうを言うために、電話をかけてきたの?」
「違う」
「じゃあ、何?」
沈黙。
「囀と、話したい、と思った」
「それが、電話をかけてきた理由?」
「おそらく」
囀は愉快そうに笑った。
「可愛いね、月夜」
意味が分からなかったから、月夜は首を傾げる。首を傾げても、そのジェスチャーは相手には伝わらない。
「もう、寝るの?」囀が質問した。
「もう、というのは、どれくらいの時間を、許容する言葉なの?」
「え、許容? えっとねえ……、だいたい、一時間以内」
「それなら、そうかもしれない。囀は?」
「僕は、もう、布団の中だよ」
「もしかして、起こしちゃった?」
「いや」囀は答える。「布団で寝転がりながら、本を読んでいた」
沈黙。
「……月夜?」再び、囀の問いかけ。
「何?」
「大丈夫?」
「何が?」
「いや、何がって……」
「囀は、明日、学校に来る?」
「え? それは、もちろん、行くけど……」
「よかった」
「え、どうして?」
「また、話そうね」
「何を?」
「色々」
「色々って?」
「何でも」
「月夜は、今まで、何をしていたの? 勉強?」
「お風呂に入っていた」
「あ、なるほどね」
「囀は、いつも、こんなに早く、寝ているの?」
「いや、違うよ。うーん、寒いから、布団に入っているだけで、眠ろうとしていうわけじゃないんだ」
「そう」
「月夜の家は、快適そうだね」
「どうして、そう思うの?」
「なんとなく」
「快適、の基準が分からない」
「そんなものないよ。感覚的な問題」
「もう、寝る?」
「いや、だから、まだ寝ない」
硝子戸が少し横にスライドして、フィルがリビングに入ってきた。
「そろそろ、切るね」月夜は言った。
「え? ああ、うん……」囀は歯切れが悪い。「なんか、唐突だね」
「何が?」
「いや、何でもない。また明日ね」
「うん」
電話を切る。
「誰からだ?」月夜の傍に寄ってフィルが尋ねた。
「友達」
フィルが風呂に入りたいと言ったので、月夜は彼を連れて浴室に向かった。もう、彼女は済ませたから、服は脱がずに、彼をシャワーで軽く流すだけにした。
タオルでフィルの身体を拭く。彼は気持ち良さそうだった。
一階の戸締まりを完了させてから、二人は月夜の自室に向かう。今日は、やけに階段を上り下りしているな、と月夜は思った。
頭は大分クリアになっていた。おそらく、囀と話したせいだろう。会話というものは、瞬時に返答を考えなくてはならないから、多少なりとも頭を使う。一度その回路に電流を流せば、暫くは電圧が維持されて、継続して運用できるようになる。
勉強する気にはなれなかったから、月夜は本を読み始めた。
新しい本はないから、昔一度読んだものを読み返す。
ミステリー小説だった。
その物語には、二人しか登場人物が出てこない。つまり、どちらかが犯人ということになるが、読者に求められているのは、単純に、どちらが犯人かを当てることだ。ミステリー小説を読む場合、月夜は、犯人が誰か、ということを念頭に置かない。そんなことは、正直にいってどうでも良い。彼女が一番興味を引かれるのは、犯行を可能にするとトリック、つまり仕掛けであり、犯人も、またその人物が犯行に至る動機も、すべておまけみたいなものだと考えていた。
物語の終盤で、犯人がどちらなのかは、自動的に分かる。それは、どんなミステリー小説にもいえることだ。それが解明されなければ、非難されるからだろう。けれど、犯人が誰なのか分からない作品も、少しくらいあっても良い気がする。もしかすると、月夜が知らないだけで、そういう作品も存在するのかもしれない。もしあるのなら、そうしたタイプのちょっと変わったミステリーを、彼女は体験してみたかった。
しかし……。
現実世界では、その考えは通用しない。
犯罪が起きた場合、手法などは、まったく取り沙汰にされない。
そんなことは、人々の感心の対象ではないからだ。
どんな人が、どんな関係の人を殺害したのか、それが一番気になる
。
つまり、彼らにキャラクターを与え、それによって構成されるストーリーを望んでいる。
妄想といえば良いか。
あるいは、幻想か。
容姿端麗な人間が殺人を犯したら、きっと、世の人々は、その人物を記号化して、ほかのものに取って代わらない絶対的なキャラクターを付与する。
美しいものが、美しくないことをするというそのギャップに、心動かされるからだ。
しかし、フィクションというものは、その心理を採用して作られている。
キャラクター造形に力を入れるのは、そのためだ。
ページを捲る手が止まっているのを見て、フィルが月夜の手に触れた。
「どうした? トリックが分からなくて、困惑しているのか?」
彼の声を聞いて、月夜は我に返る。
「トリックは、覚えている」彼を見て、月夜は答えた。
「考え事もほどほどにな。脳が熱を帯びて、暴走してしまうかもしれない」
月夜は頷く。
「その肯定は、何だ?」
「分かった、という意味」
二時間ほど本を読み進めて、物語の半分くらいに達した。しかし、読んでいる内に段々と内容を思い出してきたから、月夜はそれ以上読みたいとは思わなかった。
知っているものには、もう、それ以上、触れる必要はない、と感じることがある。
囀に、まだ、関わりたいと思うのは、彼に関して、知らないことがあるからか?
そうかもしれない。
月夜は立ち上がり、パーカーを脱ぐ。
机の傍の小さな照明の電源を切り、彼女は布団に潜り込んだ。
「どうした?」フィルが尋ねる。
「もう、寝る」月夜は答えた。
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