第37話

「もう、終わったのか?」フィルが尋ねた。


「何が?」


 彼は答えない。


「丸く収まるといいな」


「何が?」


 フィルは月夜を見上げる。


「分かっているだろう?」


「たぶん」


「じゃあ、どうして尋ねる?」


「さあ、どうしてだろう」


 沈黙。


「俺に助言を求めているのか?」


「いや」月夜は首を振った。「求めれば、君はそうしてくれるだろうけど、今は、必要ない」


「じゃあ、どうしてほしい?」


「どうしてほしいのか、分からない」


「本当は分かっているのに、分かっていないふりをしている、という可能性はないか?」


 月夜は考える。しかし、そうとは思えなかった。


「それは、違うと思う」


「そうか」フィルは顔を前に戻した。「なら、いいけどな」


 室内に風が吹き込み、月夜の髪とカーテンを靡かせる。机の上に置いたままになっていたプリントが、舞い上がって床に落ちた。そのまま、床にへばりつくように沈黙する。


 月夜の腕から抜け出し、フィルは屋根の上に飛び乗った。


「月夜も、来るか?」


 彼女は彼の問いに応える。


「一緒に来てほしいの?」


「いや」


「じゃあ、行かない」


「そうか。……先に風呂に入って、寝ていていいぞ」


「どこに行くの?」


「少し、散歩に」


「気をつけてね」


「何にだ?」


 フィルに訊かれて、月夜は思い出した。


「そっか」彼女は言った。「ごめん、忘れて」


 屋根からベランダに、そしてベランダから庭に移って、フィルは夜の道路を駆けていった。彼の毛は黒いから、闇に溶けてすぐに見えなくなる。黄色い瞳は、今日は輝いていなかった。自分で調節できるのかもしれない。


 窓を閉めて、月夜はそのままベッドに横たわる。


 学校でも感じたことだが、やはり疲れていた。


 最初は、疲れているのではないか、という疑いの段階にすぎなかったが、時間が経過するにつれて、それは確かな実感を伴ってきた。


 何が原因で疲れたのか、思い当たる候補はいくつかある。


 それを解決しない限り、疲れは消えないかもしれない。


 解決の手順は決まっている。ただ、どのセグメントをどの順序で連結するかは、まだ決まっていない。


 不思議だ。


 伝え方よりも、内容の方が重要なはずなのに、前者を優先しようとするなんて……。


 ゆっくりと起き上がり、片方の手で額を押さえた。頭は痛くなかったが、自分の手でも良いから、撫でられたいと感じた。細い髪が指と指の間に挟まり、微妙な感覚を伴って滑り落ちていく。それを何度か繰り返している内に、徐々に気持ちは落ち着いてきた。


 暗い階段を下り、浴室に向かう。


 服を脱いで、風呂に入った。


 身体と頭を洗い、湯船に浸かる。


 お湯の中で、月夜は眠ってしまった。


 心地良かった。


 このまま、死んでしまっても良いと思った。


 眠っているのに、頭脳は思考を続けている。


 自分の意思で考えている感覚はなかった。


 考えさせられている。


 自分で、自分に、そうさせている。


 囀のことが気になった。


 もう、ずっと、そんな状態が続いていた。


 ほんの数時間前まで一緒にいたのに、今、彼は何をしているだろう、という思いが、別れた途端に、彼女の胸中を支配する。


 これは、間違いなく恋ではない。


 しかし、それに似た性質を帯びた何かだ。


 その何かが、何か分からないから、何をしたら良いのか分からない。


 瞼を持ち上げる。


 頭がぼんやりとしていた。


 顔まで湯に浸したい衝動を抑えて、風呂から上がる。


 パジャマに着替え、いつも通りパーカーを羽織って、リビングに向かった。


 真っ暗な部屋の中。


 時計の音が響いている。


 静寂。


 ソファに座り、天井を見上げる。


 二階の自室に戻り、携帯電話を手にして、再び階段を下りながら、それを操作した。


 囀に電話をかける。


 コール音が響く。


 接続された気配とともに、囀の声が聞こえた。

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