第8章 不利益
第36話
学校には戻らずに、家に帰った。リビングに入ると、ソファでフィルが眠っていた。月夜が帰ってきたのを察知して、彼は顔を上げる。硝子戸を空けて、室内の空気を入れ替え、彼女はフィルの隣に腰かけた。
骨董品屋で買ってきた時計を、テーブルの上に置いた。
「なんだ、それは」彼が反応した。
「友達と一緒に買い物に行って、見つけたから、買ってきた」
ソファに座ったまま、フィルはしげしげと時計を観察する。
「まさか、これ、俺のつもりじゃないだろうな?」
月夜はフィルを見る。
「似ていない?」
彼は目を細める。
「似ている」
「あまり、嬉しくなかった?」
「俺が喜ぶと思って、買ってきたのか?」
月夜は黙って考える。
「そういう気持ちも、なかったとはいえない」
「お前らしい返答だな」
フィルはソファから飛び降り、テーブルに乗って、時計の周りを歩く。様々な角度から観察し、品定めをしているようだ。
「この猫が、俺に似ているかはともかく、時計自体は立派で、高価なものみたいだな」
フィルは時計の前に座る。
「いくらしたんだ?」
「それは、その時計の価値と、関係がある?」
「ないとはいえないな。本質ではないが」
「二万七千円」
フィルは口笛を吹いた。
「お前は、なかなかものを見る目があるみたいだ」フィルは話す。「どうせ買うなら、高いものの方がいい。特に、永続的に使う可能性が高いものは、尚更な」
「気に入ってくれた?」
「俺が気に入るかは、関係ないだろう? お前が使うんじゃないのか?」
「このリビングに、置いておこうと思う」
「置けばいいじゃないか。きっと、素晴らしい景観になるぜ」
「じゃあ、気に入ってくれたの?」
「どうして、そんなことが気になる?」
「なんとなく」
「変だな、月夜」
「私は、いつも変だ、というのが、周囲の基本的な見解らしい」
「それは知っている。ただ、今日の月夜は、いつにも増して変だ」
「何が?」
「誰かにプレゼントすることなんて、そうないだろう?」
フィルに指摘されたことを、月夜は検討する。たしかに、そうかもしれない。自分は、あまり、贈り物をしたことがない、と彼女は気づいた。
「そうかもしれない」
「何かあったのか? こう……、プレゼントを贈りたくなる、何かが」
「何もない」
「じゃあ、気紛れか?」フィルは笑った。「俺と同じだな」
「君と同じでも、嫌だとは思わない」
「もともと、嫌だからかもしれないな」
「それ、冗談?」
「どう受け止めるかは、お前の自由だ」
時計は、テレビ台の端に置いた。あまり高い所に置くと、落ちたときに壊れてしまうから、すぐ手に届く位置を選ぶ。フィルの言った通り、適切な場所におけば、それなりの効果を発揮するみたいだった。この部屋の雰囲気が、少し変わった気がする。
リュックを持って二階に上がり、自分の部屋に入った。フィルは月夜の肩に載ってついてくる。
窓を開け、換気する。これを怠ると、彼女はすぐに頭痛を引き起こす。
椅子に座ったまま、月夜はぼんやりと天井を見上げた。
「勉強は、しないのか?」彼女の肩に載ったまま、フィルが質問する。
月夜は目だけで彼を見た。
「どうしようか、迷っている」
「ほう。不思議なこともあるものだ」
「不思議?」
「お前が、そんな時間の使い方をするとは」
「今は、ぼうっとしたいから、ぼうっとしている」
「毎日勉強する必要なんて、ないだろう?」フィルは言った。「たまには、俺と遊ぶのはどうだ?」
「遊ぶ?」
月夜はフィルを両手で包み、彼の顔をじっと見つめた。
「そうさ。たまには、楽しいこともしないとな」
「学校は、楽しくないわけではない」
「もっと楽しいことをしないと、本当の楽しさを、忘れてしまう」
月夜は首を傾げる。
「何をしたいの?」
「俺か? いや、俺は、別に、特にしたいことなんてない」
「遊ぼう、と誘ったんじゃないの?」
「月夜に、遊んでほしかったんだ」
「どうして?」
「女の子が、無邪気に遊んでいるのを見るのが、好きだからな」
「女の子、の意味が、少し違う気がする」
「年齢は関係ない」
「何をして、遊べばいい?」
「お飯事とか、その年齢で本気でやっていたら、魅力的だ」
「年齢は、関係ないって、今、言わなかった?」
「言った」
月夜は黙り込む。
「お飯事の道具は、持っていない」
「本気でやるつもりか?」
「やってほしいんじゃないの?」
フィルは笑った。
「もういい。その答えが聞けただけで、充分だ」
下から掃除機を持ってきて、月夜は自室を軽く掃除した。あまり埃は溜まっていない。溜まっていないのではなく、見えないだけかもしれないが、見えなければ、存在しない、と錯覚できる。それは、月夜の持論の一つだった(持論と呼べるほど、彼女はそれを確かなものと認識していない)。
窓の外を眺めた。
山が見える。
鳥の鳴き声は、今は聞こえない。
外気は冷たかった。
フィルが、窓枠に座って、月夜に身を寄せてくる。
外を見たまま、月夜は彼を軽く抱き締めた。
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