第35話

 机の横に提げてあるリュックから、携帯電話を取り出す。何でも良いから見るものが欲しくて、彼女は適当にニュース記事を探した。教室の風景は、気を紛らわすには慣れすぎていた。


 ニュースには、平和なものもあれば、不穏なものもある。それは、世の中の真理を表しているから、形としては正しい。ただ、そこに示されているのは、それらの出来事に直接関わっていない人間の手によって編集された内容だ。だから、ニュースは、世界そのものの姿を写す鏡ではない。当たり前のことだが、意識していないと、そんなことはすぐに忘れてしまう。人々の感情を左右するために、ニュースは存在するといっても良い。不穏なニュースがページのすべてを埋め尽くしていたら、世の中がそうした方向に向かっているのだと、容易に錯覚してしまうだろう。


 交通事故が起きて、子どもが一人死亡したというニュースが、ページのトップに掲載されていた。


 これも、情報操作の一種だ。


 人は、いつか必ず死ぬ。


 持病がなくても、蓄えが充分でも、明日死亡する可能性は、すべての人に等しく振り分けられている。


 それを忘れてはいけない。


 そう……。


 だから、伝えたいことがあるのなら、できるだけ早く伝えるのが、合理的な選択だ。


 月夜は、それを思い出した。


 本当は、その気づきは、とっくの昔に得ていた。


 なぜか、今まで忘れていた。


 これも、誰かによって、自分の意識が逸らされていたせいだろうか?


 教師がやって来て、午後の授業が始まる。英語だった。


 教師の流暢とはいえない発音を聞きながら、同じく日本人らしい調音方法で、新出単語を発音する。一通り単語の意味を確認したら、今度はペアで問題を出し合う。月夜は隣の男子生徒とその作業を行ったが、相手は勉強が得意ではないながらも賢い人間で、すぐに終わってしまった。彼は、授業中によく眠っている。夜型の人間なのかもしれない。学校の授業は長いときで七限目まであるから、昼休みも含めれば、だいたい六時間半くらいの睡眠時間を確保できる。連続しているわけではないから、質は下がるだろうが、この日中の時間をすべて睡眠に当てれば、夜を自分の好きなように活用できる。


 そして、月夜は、そもそもあまり眠らない。さらに、あまり食べない。眠らなくても平気だし、食べなくても活動できる。自分がどうしてそんな体質なのか分からないが、事実としてそうなのだから、その性質を有効活用すれば良い。現に、彼女は自分の体質に合わせた生活を送っている。


 英語の授業が終わり、次にロングホームルームがあった。それもすべて終了し、放課後が訪れる。


 多くの生徒は、何らかの部活動に所属している。授業数が少ない日は、必然的に部活動の時間が長くなるから、喜ぶ者もいれば、落胆する者もいる。自分のやりたいことをやっていても、気分が乗らない日というのはある。だから、部活動の時間が増えて、落胆する者の気持ちも、月夜は分からなくはなかった。


 囀に誘われていたから、彼女と一緒に学校を出て、ショッピングに赴いた。いつもの駅から電車に乗り、数個先で降りる。前回降りたよりも手前の駅で、下車とともに田舎の雰囲気が感じられた。


 駅舎はとても小さかった。月夜の家の最寄り駅もかなり小規模だが、それよりも小さい。ホームしかないといっても過言ではない。ただ、その正面に真っ直ぐアーケード街が展開されており、そこだけ妙に賑わっていた。反対に、そこしか賑わっていない。駅の周辺と、そのアーケード街では、色彩が違うように月夜には見えた。


 囀に案内されて、まずは古本屋に行った。


 囀は、新品の本よりも、どちらかというと中古品の方が好きだと話した。誰かに使い込まれて、いならなくなって捨てられたしまったものが、なんだか可哀相に思え、趣を感じる、とのことらしい。月夜も大方囀の意見に賛成だった。古くなった本は、見ているだけでノスタルジーを感じる。


 店内はとても狭くて、書棚の間に形成された通路は、すれ違えるほどの幅もなかった。だから、入り口から右手方向に進み、店の奥に向かって、最後に左側の通路を進む、というふうに、半時計回りに見て回った。月夜の興味が惹かれるものはなかったが、囀は、大分前に刊行された源氏物語の最終巻を購入した。中間のものは持っていないのに、いきなり最終巻を購入したらしい。最終、というレッテルが貼られることで、ものの価値が上がるようだ、と月夜は思う。


 古本屋のあとは、骨董品を売っている店に入った。典型的に、壺がいくつも並べられており、さらに、メカニカルな機構で動く時計の数々が陳列されていた。


 その内の一つ、黒猫が模された置き時計に、月夜の視線は引きつけられた。


 その黒猫は、フィルにそっくりだった。


 時計は縦に長く、脚の部分にアーチ状の窓がついており、その向こう側で振り子が揺れている。上部の意匠として、金属で作られた黒猫のプレートが付けられていた。


 月夜はそれを手に取る。


 隣から、囀が彼女の手もとを覗き込んだ。


「月夜、猫が好きなの?」


 時計をじっと見つめたまま、月夜は頷く。


「これを、買う」


「え?」囀は月夜の顔を見た。「本当に?」


 時計を持ったままレジに向かい、月夜は金銭を払ってそれを入手した。


 店を出たとき、囀が言った。


「月夜がそんなものを買うなんて、意外だね」


 月夜は尋ねる。


「何が?」


 囀は笑った。


「なんか、月夜って、自分に似ているものを、避けているみたいだったから」


 囀の意見は、月夜には分からなかった。

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