第34話
手もとにある本は、有名なSF小説で、海外で書かれたものだった。なかなか面白そうなタイトルだったから、表紙を開いて読んでみたが、内容も、なかなか面白かった。まだ全部読んだわけではないから断言はできないが、少なくとも、目次を捲って、最初の一、二ページまでは、面白い印象を受けた。
本の貸し出しが停止される前に、なんとかこの小説を借りたい、と思ったが、話し合いが終わるまで、そうした事務作業は受けつけてもらえそうにない。
もし、そうした対応が成されれば、困るのは月夜だけではないだろう。
彼女が知っている範囲では、囀も、この図書室から本を借りている。
きっと、彼女も落胆するに違いない。
意気消沈して、学校に顔を見せなくなるかもしれない。
いくらなんでもそれは言いすぎだが、しかし、囀なら、それくらいしてもおかしくないと月夜は思った。
委員会はまだ続いていたが、今日はもういいと思って、小説を借りずに、月夜は図書室を出た。目の前の食堂は、いつも通り賑わっている。その隣にあるパン屋でも、小規模な列が形成されており、生きるために、皆一生懸命エネルギーを求めているのが分かった。
階段を上がり、教室に戻ろうとする。
その途中で囀に遭遇した。
「あ、月夜」階段の中程で立ち止まって、囀は言った。「今日は、お昼、食べた?」
彼女に訊かれて、月夜は首を振る。
「駄目だよ、ちゃんと食べなきゃ」囀は笑った。「あ、僕、今から、そこで何か買うから、月夜も何か食べる?」
そこというのは、パン屋のことだろう。間違えても、図書室ではないはずだ。
彼女の気遣いは嬉しかったが、月夜は再び首を振った。
「そう? まあ、お腹空いていないなら、いいけど……」
「囀は、まだ、空いているの?」
「そうだよ。だから買いに行くんじゃん」
またね、と言って、囀は階段を足早に下りていった。
廊下を進み、教室に戻ってくる。
半分くらいの生徒が、まだ教室で昼食をとっていた。ほかのクラスの生徒も、何人かこの教室に入ってきている。月夜は自分の席に座り、頬杖をついて、ぼうっと教室の前方を眺めた。何もすることがないわけではないが、何もする気になれなかった。きっと、疲れているのだろう。疲れる要因は見当たらないが、毎日生きているだけで、それなりに疲れる。現代人の多くは、色々なストレスを抱えており、昔に比べて疲れやすくなった、といわれることがあるが、きっと、それは、どの時代にも共通していることだ。
黒板の上の壁にスピーカーが設置されている。その隣に時計があり、針は午後一時五分を指していた。昼休みは、あと十五分ほど残っている。
何も考えないで休憩しようと思っても、必ず何かは考える。使用する脳の部位を変えたいだけで、本当は、すべての思考を放棄したいわけではない。思考するのをやめてしまったら、個人のアイデンティティは損なわれてしまうかもしれない。最終的には、人間に与えられた自由とは、思考の自由、つまり脳内世界の自由でしかない。他人から批判されるようなことも、自分の頭の中で考えるのは自由だ。
月夜は囀のことを考えた。
囀に出会ってから、ふとした瞬間に、彼女を思い浮かべることが多くなった。最初の内は、親しくなりたい、という感情に起因していたが、最近は少し変わっていた。それは、どうしたら彼女を理解できるだろうといった、探求に近い思考だ。囀の考えが、月夜には理解できないことが多い。おそらく、こういう方向で考えているのだろう、というような軌跡を想像することはできるが、その道を進んだ先に、囀が至ったのと同じ結論があるとは限らない。ほとんどの場合、それは異なる。月夜独自の思考が邪魔をして、知らぬ間に道を逸れてしまっているのだ。
もっと囀を知りたい、と月夜は強く感じる。
そんなふうに思うのは、とても珍しかった。
他者についてあれこれ考えているつもりでも、それは、最終的に自分の利益になる。一般的には、認められることによる悦楽だったり、信頼というものがそれに当たるが、月夜の場合もそれは同じだった。きっと、自分は、無意識の内に、都合の良い他者を望んでいるのだ、と彼女は考える。その他者が、今回は囀だった。
自分は、確実に囀に甘えている。
彼女を深く知りたいというのは、同時に、彼女に自分を知ってもらいたいということでもある。
どちらか一方で成り立つものではない。
欲望や願望の先には、常に何らかの対象が存在する。
そして、その対象が自分に同様のはたらきかけをしてくれることを、望んでいる。
人と人との関係とは、そういうものだ。
ただ……。
それが度を超えてしまえば、二人だけの世界に没入することになる。
世界には、二人以外にも、数多くの人間が存在する。
それらの人々を考慮に入れなくてはならない。
だから……。
月夜は、これ以上囀と関係を深めて良いか、疑問だった。
そして、不安でもあった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます