第30話

 お湯に浸かりすぎて、若干逆上せてしまった。脱衣所に出たとき、足もとがふらついて、身体機能が正常に作動していないのが分かった。パジャマに着替え、湯冷めしないようにパーカーを羽織る。逆上せと、湯冷めの、二つに同時に対処しなくてはならないのが、大変だった。


 身体が熱かったから、ウッドデッキに出た。フィルもついてくる。月夜は彼を抱きかかえ、柵に寄りかかって夜の住宅街を眺めた。


「何かあったら、俺に相談するといい」フィルが言った。


「何か?」


「悩み事の類」


「うん……」


「解決策は教えられなくても、心を浮つかせることくらいは、できる」


「フィルは、今日は何をしていたの?」


「散歩」


「どこを?」


 月夜が尋ねると、彼は近所の公園だと答えた。


「誰か、友達はできた?」


「できないね、そう簡単には」フィルは話す。「そもそも、俺が、それを望んでいない」


「友達は、いらない?」


「いるかもしれないが、今はいらない」


「どうして?」


「理由はない」


「今日は、少し寒い」


「逆上せるなんて、お前らしくないな。考え事でもしていたのか?」


「うん」


「余程気になることだったんだろうな」


「そうかもしれない」


「素直に認められるのは、お前の美点だ」


「それは、前にも言われた気がする」


「俺に?」


「そう」


 フィルは黙る。


 すぐ傍にある庭には、今は何も生えていない。雑草は、枯れて、根だけを土の中に残している。


 街灯がないから、星空がよく見えた。地学の授業を受けているが、どれがどんな星か、月夜には分からなかった。輝いているのは恒星だから、太陽と同じ性質を持った星が、これだけ存在することになる。世界は広い、と月夜は純粋に思う。世界とは、地球のことではない。それを超越した、空間そもののことだが、空間に果てがあるとしたら、それはどんなものだろう、と月夜は考える。


 一般的に、空間は、周りを物理的な何かで区切ることで生じる。部屋という空間は、壁と天井、そして床で区切ることによって、初めてその場に存在するようになる。しかし、少し抽象度を上げて、空間そのものを捉えようとすると、六つの面を囲む物質の有無に関わらず、その空間は、その場所に存在する、と認識できる。宇宙というのは、後者の性質を持ったものだと考えられるが、その場合、仮に宇宙の外に出たら、その先はどうなっているのか、という問いが生まれる。また、宇宙の外など存在せず、ずっと宇宙は続いているとする場合、今度は無限という概念について考えなくてはならなくなる。どちらとも、容易に解決できる問題ではない。


「まさか、そんなことを、風呂の中で考えていたんじゃないだろうな?」


 月夜が黙って考えていると、フィルが質問してきた。


「どうして、私が考えていることが分かるの?」


「俺は、お前の考えていることが何か、少しでも口にしたか?」


 月夜はフィルをじっと見つめる。


 彼は、口もとを上げて、意地悪そうな顔をした。


 しかし、それが愛おしい。


 月夜は、フィルを抱き締める力を強める。


「少し、苦しい」フィルが言った。


「少し?」


「ほどほどに、苦しい」


「ほどほど」月夜は彼の台詞を繰り返す。


「明日も学校だな、月夜」彼は話した。「椅子に座って、人の話を聞いているだけでいい。こんな楽な時間は、人生の中でも、今くらいしかない。大切にすることだ」


「フィルは、学校に通ったことがあるの?」


「いや、ない」


「じゃあ、どうして、そんなことが分かるの?」


「随分と、長生きしたからな……」


「君が述べた理屈は、君自身には、適用できないね」


 溜息を吐くように、フィルは呟いた。


「その通り。俺は、不安定なんだ」

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