第27話
「今、開いているかな」囀が言った。
月夜は扉に近づき、それをスライドしようとする。
「開いていない」
「まあ、そうか」
「何か、見たいものがあるの?」
「いや、ないけど……」囀は話す。「うん、僕は、この教室が気に入った」
「どういうところが?」
「なんか、手入れされていないところとか」
「教室が、汚れている、ということ?」
「そう」
「でも、綺麗な方だとは思うよ」
「もちろんそうだけど、それでも、何か、こう……、汚れていると思わせるものが、この教室にはあるじゃない? それがいいなっていうか……。汚れていると、綺麗の、中間が垣間見れるような、そんな感じがする」
美術の授業は、一年生では芸術分野の一つとして選べるが、二年生以降は、そちらの方面の大学を目指す者以外は、履修することはない。だから、美術室に入るには、美術の授業を履修するか、美術部に所属するか、あるいは、先生がいる時間に訪れて、入らせてもうらしかない。
校舎を一通り歩き終えて、二人は中庭に出た。
外は寒い。月夜は、相変わらずコートを持ってきていなかった。それとは対象的に、囀は毎日コートを着ている。彼は、色々なものに過剰に反応する。過剰というのは、月夜に比べればという意味で、平均との比較は分からない。
中庭の中心にある噴水は、今は水を流していなかった。生徒がいない時間帯は、電力の供給がストップされるようだ。
月夜は噴水の縁に腰かける。
囀は、口笛を吹きながら、その上を歩き始めた。
「ねえ、月夜はさ、誰かと一緒に生活したいとか、思ったことって、ないの?」
両手を広げてバランスをとりながら、囀が唐突に質問した。
「私には、一緒に生活している人が、いる」
「え?」囀は声を上げた。「本当に?」
彼を見て、月夜は頷く。
「へえ、そう……。……てっきり、一人暮らしかと思っていたよ」
「厳密には、毎日一緒にいるわけではないから、一人暮らしを維持している、ともいえなくはない」
「なるほど。恒常的ではなく、定期的な関係なんだね」
「うん、たぶん」
「たぶんって?」
「相手が、どう思っているのかは、分からない」
囀は微笑む。
「囀は、お母さんと暮らしているのは、楽しい?」
「うん、まあね」
「お父さんは、どうしたの?」
「ああ、彼は、死んだ」囀は言った。「仕事中に、事故でね」
特に気にしているようではなかったから、月夜は、自分のその質問について、謝らなかった。
「母親と暮らしているから、毎日が楽しい、というわけではないよ」歩きながら囀は話す。「僕は、誰といても、どこにいても、大抵楽しい。もちろん、今、こうして、月夜と一緒にいるのもね」
囀は彼女を見る。
月夜は僅かに首を傾げた。
「でもね、ときどき、楽しさって何だろうって、そんな馬鹿げたことを考えることがあるんだ。自分さえ楽しければいいっていうのが、僕の基本的なスタンスだけど、でも、それって、はっきりいって、寂しいよね。僕が楽しい思いをできるのは、楽しさを齎してくれる存在があるからで、それは、本とか、音楽とか、映画とか、そういうものだけど、そういうものを作ってくれる人が、この世界には存在する。だから、僕はそれを媒介として、楽しいという感情を抱くことができるんだ。……これって、僕が一人では生きていけないことの、証明になっているんじゃないかな、と思う」
月夜は黙って頷く。
「……結局のところ、僕には、傍にいてくれる誰かが必要なんだ。自分でも意識しない内に、いつも、そんな誰かを探している。そんなときに会ったのが、月夜だった。僕はね、君に会って、少し世界が変わった気がしたよ」
「世界は、変わらない」月夜は呟く。
「その通り。……でも、君は、僕の二面性を受け入れてくれた。しかも、あんなにスムーズに……。何の手続きもいらなかった。認めてくれって、頼んだ覚えもないのに、君は僕を承認してくれた。それが、嬉しかったんだよ、僕は……。僕は、自分のそんな性質を、他人に認めてほしいとは思っていなかったけど、実際に認めてもらえると、これが、やっぱり、嬉しいんだ。だから……。もっと認めてほしくて、僕は、今も、君の傍にいるんだと思う」
囀は立ち止まり、月夜の左斜め後ろから彼女に尋ねる。
「君は、これからも、僕を認めてくれる?」
月夜は首を後ろに向け、囀を見つめる。
「それは、私と今後も関係を維持していくための、契約?」
囀は口もとを持ち上げる。
「どう捉えるかは、月夜次第だよ」
月夜は頷く。
「私は、君を、認める」彼女は言った。「でも、認めようと思って認めたわけじゃないことは、理解してほしい」
「うん、それは、もちろん、分かっている」
「そして、すべてを認めるわけではないことも、覚えておいてくれると、助かる」
「うん、それも、その通りだよ」
囀は噴水の縁から飛び降り、月夜の正面に立った。
「じゃあ、今後も僕に構ってくれるんだね?」
月夜は静かに頷く。
「どうもありがとう」
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