第6章 不謹慎
第26話
教室の中はただただ暗い。夜になっても、月夜は照明を点けなかった。その方が心的に落ち着くからだ。夜は暗いから良いのに、電気を灯して明るくしてしまったら、趣が壊されてしまいそうな気がする。夜なのに電気が灯っていて良いのは、丘の上から眺める夜景だけだ。それはそれで趣があるし、星空と呼応しているようで、美しく見える。
囀はまた眠ってしまった。自分の席に座ったまま、机に上半身を押しつけて沈黙している。月夜は読書をしていた。今日はラブストーリーだった。月夜はあまりその手のものは好きではないが、最近になって、段々と良さが分かるようになった。このような胸の高まりを擬似的に体験することで、実際にそうした場面に遭遇したとき、的確に対処できるようになる、というのが、そのジャンルの創作物に触れることで得られる価値だと、彼女は判断した。
時計を見る。午前零時になった。
チャイムは鳴らない。
囀がゆっくりと机から身体を起こし、目を擦った。
顔をこちらに向けて、月夜がいるのを確認する。
「おはよう……」籠もった声で囀は挨拶した。
「こんばんは」月夜はそれに応じる。
囀は、何も言わずに教室を出ていく。のそのそとした足取りで、先行きが若干心配になった。先行きというのは、ここで使うには相応しくない言葉だが、今の月夜には、ほかに適した言葉を見つけられなかった。
教室の扉が閉まる。
瞬間的に訪れる静寂。
突然、窓の外で音がし、月夜はそちらを見る。
猫が室内を覗いていた。爪で硝子を引っ掻いている。
フィルだった。
月夜は立ち上がり、彼の傍に行く。窓を開け、ほんの僅かな窓枠に座っている彼を抱き上げた。
「どうやって、ここまで来たの?」答えは分かっていたが、月夜はなんとなく尋ねた。
「壁伝いに、上ってきた」フィルは答える。
「何か用事?」
「いや。昨日帰ってこなかったから」
「私が帰らないと、不満?」
「多少」
予想外の返答だったから、月夜は少し驚いた。
「今日は、帰るよ」
「そうしてくれるとありがたい」
「何が、ありがたいの?」
「色々とな」
「色々、とは?」
「具体的な候補はいくつかあるが、どれも、わざわざ挙げるほどの具体性は持っていない」
月夜はフィルを抱き締める。
「月夜、何か、妙なことは起きていないか?」
彼の頬に寄せていた顔を離して、月夜はフィルの瞳を見つめる。
「妙なこと?」
「何も気にならないのなら、別にいいが」
「特に、気になることは、ない」
「じゃあ、もう解決しているのか?」
「私の中では、たぶん」
「たぶん?」
「おそらく、という意味」
「そんなことは分かっている」フィルは笑う。「これ以上は、もう、いいのか?」
「何が?」
「思考するだけで、行動しなくて、いいのか?」
「私がすることは、何もない」
「それならいいが」
「そろそろ、帰って」月夜は言った。「彼が戻ってくる」
「まるで、そいつに、俺を会わせたくないみたいだな」
「そんなことはないけど、紹介するのは、疲れるから、したくない」
「了解だ」そう言って、フィルは月夜の腕から抜け出し、また窓枠に移った。「俺は、一足先に帰っているよ」
「うん、またね」
「帰りは、気をつけてな」
「何に?」
「幽霊とか」
壁に沿って設置された排水管や、窓の上部に付いている廂を器用に伝って、フィルは闇の中に消えていった。彼の黄色に輝く瞳が、暫くの間月夜には見えていた。
背後で扉が開き、囀が姿を現す。
「おまたせ」彼は言った。「なんか、手間取っちゃった」
月夜は振り返る。
「特に、待ってはいない」
囀は自分の席に座り直し、椅子だけ方向転換させて、月夜をじっと見つめる。彼はにこにこ笑っていた。何がそんなに愉快なのか分からないが、笑顔は、泣き顔よりもプラスの影響を与えるから、月夜は良いと思った。
「どうか、したの?」
それでも、囀があまりにも長い間そうしているから、月夜は尋ねた。
「月夜、今、誰かと会っていたでしょう?」囀は言った。「僕にはね、分かるんだ」
「どうして?」
「どうしてかは説明できないけど、まあ、一種の勘ってやつかな」
「いや、えっと、どうして、そんなことを訊くの?」
「なんか、気になったから」
「私が、ほかの誰かと会っていたのが?」
「そう」
「なぜ、気になるの?」
「本当に、なんとなくだよ」囀は説明する。「僕は、君と親しい間柄だから、君にほかに親しい誰かがいると、嫉妬するんだ」
「嫉妬、しているの?」
「僕が、したくてしているんじゃないよ。ただね、そういう機能が、僕の心に備わっている。たぶん、君を独占して、自分の利益を高めようとする、生物的な本能だろうね」
「うん、私も、そう思う」
「だから、本心じゃない」
「だから、という接続詞の使い方が、間違えている気がする」
「でも、君だって、そのくらいは、自分に許容するでしょう?」
月夜は考える。
「うん、たしかに」
「なら、僕のときも許してよ」
「分かった、許す」
囀は笑った(彼は、この会話の間、ずっと笑っていたが)。
囀が退屈だと言い始めたので、彼の提案で、夜の学校を探検することになった。探検といっても、知らない場所はほとんどないから、シチュエーションを楽しむだけになる。教室を出て廊下を進み、途中で美術室の前にやって来た。
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