第25話
「何?」
月夜は尋ねる。
「ん?」
声を発するだけで、囀は答えない。
その体勢のまま、二人は数秒間硬直する。
「どこが、具合が悪いの?」
月夜は質問した。
「具合は、悪いといえば、悪いかな」囀は話す。「だけど、体調が悪いわけじゃないから、大丈夫だよ」
「ここは、図書室だから、あまり、そういうことは、しない方がいいと思う」
「そうだね」そう言って、囀は月夜から離れた。「勉強?」
「うん」
「今日も、いつも通り?」
「そうだよ」
「じゃあ、僕もここで勉強しよう」
月夜の隣を通り、囀は彼女の向かい側の席に着いた。三面を囲む衝立があるから、月夜も、囀も、互いの姿を見ることはできない。
図書室は、本領を発揮するように静かだ。シャープペンシルをノックする音、ノートのページを捲る音、消しゴムの滓を払う音、ときには、嚔まで……。それらは明らかに物理的な振動だが、不思議と不快な感じはしない。そうした音を聞くことで、逆に静かだと感じるくらいだ。静かさを感じさせる音というのが、この世界には存在する。
囀が勉強している様子を、月夜は初めてしっかり見た。正確には、そんな様子は見えないが、なんとなく、気配が伝わってくるような感じがした。
顔を手もとに戻して、月夜は自分の勉強を進める。地学の復習は終わったから、今度は現代社会の教科書を開いた。ここに書かれていることは、今を生きる人間にとっては、幾分重要になる。少なくとも、数学や英語よりは実践的だ。だからといって、現代社会という科目の価値が、総体的に上がるわけではない。単純な価値だけで考えれば、数学の方が上のように月夜には思える。
窓にはカーテンが引かれているから、今は外の光は室内に差し込んでいない。それでも、もう太陽が大分傾きかけているのが分かった。外で部活動をする生徒は、こんな夕暮れ時の風景を、どのように捉えているのだろう、と月夜はなんとなく考える。それは、つまり、夕空が果たす象徴ということだ。部活動に所属していない人間の場合、夕空と帰宅がイコールの関係で繋がれているが、これから部活動をする人間はそうではない。人によっては、楽しさだったり、あるいは辛さの象徴なのかもしれない。
一時間が経過した頃、月夜は荷物を纏めて席を立った。
彼女の向こう側で、囀がそれに反応する。
「もう、教室に行く?」囀が尋ねた。
月夜は黙って頷く。
日が沈んだあとの校舎は、どことなくノスタルジックな雰囲気を纏っている。実際に、懐かしさを感じる要因などないのに、橙色の光を見るだけで、懐かしい気分になる。これは、如何なる道程を経て引き起こされる感情か。
教室の扉を開けた。
室内には、誰もいなかった。
囀は窓の傍に近づき、もうほとんど闇と化しつつある校庭を見下ろす。
「こんな時間まで、一生懸命汗を流して運動している人って、素敵だね」
月夜は自分の席に着き、彼女の独り言に応える。
「囀も、汗を流しながら、勉強をしたら?」
「嫌だよ、そんなの」囀は笑った。「汗でノートが見えなくなっちゃうよ」
「運動部に入ってみたいの?」
「一日くらいは、体験してみたいかな」
「一日なら、やらせてほしいと言えば、どの部活でも、やらせてくれると思うよ」
「月夜なら、どこの部活動がいい?」
「私は、テニス部」
「へえ……。それには、何か理由があるの?」
「それしか、思い浮かばなかった」
「適当だなあ」
その指摘は正しかったから、月夜は頷いた。
「囀は?」
月夜の質問を受けて、囀は得意そうな顔をする。
「僕はね、もう、生まれる前から、どこの部活に入るか決まっているんだよ」
「どこ?」
「ナイーブ」囀は言った。「ね、ぴったりでしょう?」
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