第22話

 正面を向くと、囀がにこにこ笑っていた。


「何か、いいことがあった?」不思議に思って、月夜は尋ねる。


「あったあった」囀は頷いた。


「何?」


「月夜の、髪が、こう、ふわって、宙に舞うところが見られた」


「それが、いいこと?」


「そうだよ。素敵じゃない? そういう場面に遭遇するのって……」


 そうなのか、と月夜は考える。たしかに、言われてみれば、そんな気がしないでもない。


 囀はすぐに弁当を食べ終わり、二人は食堂の出口に向かった。彼女は、普段はよく眠っているが、食後は活発に動けるようだ。


「月夜、アイス食べる?」


 そう言いながら、囀はすでにショーケース型の冷凍庫に手を伸ばしている。


「いらない」


 小銭を担当者に渡し、囀はバー形のチョコレートアイスを食べ始めた。


 当然、アイスを食べながら図書室には入れない。食堂の傍の壁によって、月夜は囀がアイスを食べ終えるのを待った。


「美味しい?」


 月夜の質問を受けて、囀は笑顔で頷く。


「正直、ご飯よりも、こっちの方が美味しい」


「じゃあ、毎日、アイスを食べれば、いいんじゃない?」


「うーん、本当はそうしたいところなんだけど、それだと、やっぱり、体調を悪くするかな」


「体調を悪くすると、問題なの?」


「一般的にはね」囀は言った。「それに、学生である以上、体調を崩すことはできないよ」


 アイスの塵を捨てて、囀は、おまたせ、と月夜に言った。


 二人で図書室に入る。上履きからスリッパに履き替える際、どれを選ぶか迷ったが、月夜は、左右の足先に均等なバランスで「図書室」と書かれたものを選んだ。そのマークは、すべてのスリッパに書かれているが、書いた人が違うのか、大きさや字体がバラバラだ。


 図書室に入ると、カウンターの向こうに司書がいた。


 司書は、一人の女子生徒と話していた。


 特に聞き耳を立てたわけではないが、月夜には二人の会話が聞こえた。


「まだ、見つからないんですか?」女子生徒が尋ねる。


「ええ、そうなの」司書が答えた。「ごめんね。見つかったら、すぐに届けるからね」


「いえ、急がなくても、大丈夫です」


「予約しておいたのに、本当に……」


 囀は気にしていないみたいだったが、月夜には、それが、今朝、彼女のクラスの図書委員が言っていた、小説の失踪事件についての会話だと分かった。事件、という言い方は多少大袈裟かもしれないが、盗まれたのだから、事件に変わりはない。


 囀のあとについて、月夜も書棚の間を歩いた。昼休みだから、テーブルで本を読んでいる生徒もいる。個別のブースでは、受験生らしい者が、何人も勉強していた。もうすぐ、本番を迎えるらしい。本番前だからといって、意気込んで勉強しても、大きく変わらないのではないか、と月夜は考える。むしろ、本番前だからこそ、違うことをして頭を切り替えた方が良い。


 小説のコーナーには行かないで、囀は絵本が展示された場所で立ち止まった。


「囀は、小説は読まないの?」


 しゃがみ込んで本を手に取った彼女に、月夜は質問した。


「小説?」囀は答える。「読まないことはないけど、最近は、ストーリーとかじゃなくて、写真とか、絵とか、そういうものを見ることが多いかな」


 囀の隣に一緒に座って、月夜も絵本を一冊取り出す。熊が主人公のもので、巨大なグリーンピースが描かれていた。熊と、巨大なグリーンピースとの間に、どんな関係があるのだろう、と思って、月夜は本を開く。読み進めると、孤島に眠っていると噂されるグリーンピースを、村一番の熊が探しにいく、というストーリーだと分かった。それでは、グリーンピースと、孤島では、何か関係があるのか、と思ったが、最後までストーリーを追っても、その点については何も説明されていなかった。


 月夜は、本を閉じ、それを膝の上に置く。


 目を横に向ける。


 すぐ傍に、本を持っていない方の、囀の垂れ下がった手があった。


 それを握ろうか、と月夜は考える。


 勝手に触れて、怒られないだろうか。


 きっと、囀なら怒らないだろうが、月夜は、少し、彼女の手に触れるのを躊躇した。


 それは……。


 それは、どうしてだろう?


 勇気?


 勇気が足りないから?


「ねえ、月夜」囀が、本のページを開いたまま、それを月夜に近づけた。「これ、見てよ」


 月夜は本を覗き込む。


 完熟したトマトが、階段を転がっていた。


「それが、どうかしたの?」


「おかしいよね、こんなの」囀は笑いながら話す。「小さい子に、こんなの見せて、いいのかな」


「何が、駄目なの?」


「だってさあ……」しかし、囀はそれ以上続けようとしない。


 月夜は、思いきって、囀の手を握った。


 接触。


 体温。


 温かった。


 顔を上げて、囀の様子を観察する。


 しかし、彼女は何の反応も示さない。


 月夜は、手を握る力を強める。


「しかもさあ……」囀は、再び本のページを月夜に見せた。「これなんか、もう、大変だよね」


 今度は、ピーマンが海を泳いでいた。


「それが、何?」


「変だと思わない?」


 それよりも変なことが、今起こっているではないか、と月夜は思う。


「思わない」


「普通、ピーマンは泳がないじゃん」


 月夜には囀のセンスは分からなかった。


 借りる本を一冊持って、囀は静かに立ち上がる。月夜は彼女の手を離し、何事もなかったかのように顔を澄ませた。


 そのまま、じっと囀を見つめる。


「何?」彼女は首を傾げた。


「何も」月夜は答える。

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