第17話
机と机の間を通り、囀は月夜の前に来る。そのままじっと顔を見つめ、手を伸ばして、彼は彼女の頬に触れた。
「何?」月夜は尋ねる。
「いや、何も」
沈黙。
囀は、月夜の瞳を覗き込む。
それは、凍りつくように、冷徹だった。
けれど、彼は目を逸らさない。
その温度を、自分に取り込もうとする。
「チョーク、持ったままだよ」月夜は指摘した。
「ああ、そうだね」しかし、囀はそちらに意識を向けようとしない。
そのまま、三分が過ぎた。
何も起こらなかった。
誰も、何かが起こることを、期待していなかった。
期待しても、無駄だった。
囀は、月夜に言われた通り、チョークを黒板の所定の位置に戻した。板上に描かれた落書きを消し、掌を軽く払う。
「外に行こう」囀が言った。
「本当に?」月夜は、再び顔を上げる。
荷物を纏めて、二人で廊下に出た。雨の日の廊下は、空気中の水分が飽和して濡れている。気温は高くないのに、温度が身体に纏わり付いてくるようで不快だった。
昇降口に移動し、外履きに履き替える。建物の外に出ると、一気に雨の匂いがした。
校庭を歩く。靴の表面は濡れたが、中にまで水が入ってくることはなかった。
運動部が使うために形成された一画に、簡易な屋根と、その下にベンチが並べられたエリアがあった。風は強くないから、ベンチは濡れていない。月夜と囀は、そこに再び腰をかけた。
「雨の日って、いいよね」囀が言った。「特に、夜は」
月夜は黙って頷く。
傍にある棚の中に、バドミントンのラケットが仕舞われていた。囀はそれを取り出し、軽くスイングする。バドミントン部は体育館で活動するのに、なぜそれがここにあるのか、分からなかった。ただ、あるものは使える。理由が分からなくても、存在しさえすれば、利用することができる。
シャトルはないが、囀は一人でバドミントンを始めた。月夜が尋ねると、囀は自分にバドミントンの経験はないと言った。たしかに、動きはぎこちなくて、それっぽいステップを踏んでいるようにしか見えない。けれど、囀の動きはどこか俊敏で、型に合っていなくても、なぜか上手く見えた。そういう人間は、ときどきいる。何をやっても、格好良く見えるのだ。
囀にラケットを渡されて、月夜もそれを軽く振ってみたが、やり方が分からなかった。やり方といっても、手に持って、上から下に下ろすだけで良いが、そんな単純な動きでも、やはり迷いがある。囀のように思いついたままに動かせるのは、才能があるからかもしれない。
空は、当然、曇っている。
雨は、地面に溢れ、やがて消えていく。
遠目に見る夜の校舎は、どことなく不穏で、巨大だった。怪物のように見える。無言の圧力が、まるで学校に形作られた小規模な社会のように、自分を圧迫してくるみたいだった。
「もう、学校には、慣れた?」
何も話題がないから、月夜は他愛のないことを訊いた。
囀は、ラケットを振るのをやめて、月夜を振り返る。
「うん、まあね」
ラケットを持ったまま、囀は月夜の隣に座る。
「どうしたの、月夜」彼は言った。「浮かない顔してるよ」
月夜は顔を上げ、彼の横顔を見る。
「そう?」
「うん……。何かあった?」
「いや、何も」
「そう? なら、いいけど」
囀が持っているラケットは、グリップに巻かれたテープが剥がれかけている。表面は擦れ、白くなっている部分があった。もう、大分古いものだ。今までガットが切れなかったのは奇跡かもしれない。それとも、素振りされるばかりで、シャトルと触れる機会が少なかったのか……。
「僕の話をしようか?」
「囀の?」月夜は首を傾げ、それから頷いた。「うん、聞きたい」
囀は、まず、自分の好きなものについて話した。好きな食べ物はカレーライスで、好きな色は黄色。そして、好きなことは、本を読むこと。
嫌いなものは、あまりないらしい。唯一、争い事はない方が良い、と彼は言った。それは月夜も同感だった。
彼は、家族と一緒に暮らしている。でも、父親はいなくて、母親と二人で住んでいるらしい。母親は、いつも夜遅くまで働いているから、こんなふうに、夜に出歩いていても、何も言われないし、そもそも気づかれない。気づかれても、あの人は優しいから、きっと許してくれる、と囀は説明した。母親との仲は、どちらかというと良い方で、たまに一緒に外食したりする。けれど、そんなことができる日は限られていて、だから、平均よりは、コミュニケーションをとれる機会は少ない。寂しくはないが、ときどき話したくなることがある、とも彼は言った。一般的な感情で、何もおかしな点はないように月夜には思えた。
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