第4章 不可能

第16話

 囀が転校してきてから、一週間が経った。その間も、月夜は彼女と関わっていた。月夜がそうしたいと思っていたのは確かだが、それ以前に、囀が彼女に積極的に関わってくるからだ。月夜としては、それで嬉しかった。学校で誰かに声をかけられるのは、少し不思議な感じがしたが、嫌な感じではなかった。


 月夜が夜まで学校に残っていると、一週間の内、三日くらい囀に出会った。彼に尋ねると、月夜に会いに来た、とのことだったが、真意は分からない。以前みたいに、図書室に用があるわけではないみたいだった。本は、日中の内に借りておいて、それを家で読んでいるらしい。彼が借りる本はいつも特異で、なかなか優れた趣味をしているみたいだった。


 その日の夜も、教室に残って月夜が読書をしていると、扉が開いて、囀が姿を現した。


「やあ」


 部屋に入るなり、彼は月夜の傍にやって来る。


 月夜は顔を上げて、小さく頷いた。


 今日は一日中雨が降っていた。窓の外では、今も雨粒が硝子の表面を伝っている。校庭には所々に水溜りができ、毛細血管のように水の通り道を形成していた。サッカーゴールの前に大きな池のような溜まり目があり、きっと、今そこでサッカーをしたら、どちらかのチームは不利益を被る。


 囀は教室の中をぶらぶらして、黒板の前で立ち止まった。彼はチョークを手に取り、落書きを始める。石灰が板上に打ちつけられる音が、無機質な教室に融合するように響いた。


 月夜は、本から視線をずらして、正面の囀を見る。


 その姿が、ほかの誰かと重なって見えた。


 懐かしい感覚。


 いつかの夜も、同じような光景を目にした。


「ねえ、月夜」落書きを続けながら、囀が言った。「僕と一緒に、外で遊ぼうよ」


 月夜は窓の外を見る。


「今、雨が降っているよ」


「知っている」


「それでも、遊びたいの?」


「うん」


 月夜は本を閉じ、立ち上がった。


「分かった」


 囀はこちらを振り返り、困ったような顔で笑う。


「ごめん、冗談だよ。君が困る顔を見たくて、そんなこと言ったんだ」


 月夜は首を傾げる。


「そう?」


「うん……。……ごめん」


「いいよ、全然」


 彼女は再び座り、一度閉じた本をもう一度開く。


 雨音が聞こえる。打ちつけられるような音だが、不快ではない。まるで、人間の生体音と共鳴するようだ。母親の胎内にいた頃は、こんな感じだったのかもしれない。


 それは、自分が、唯一他者と物理的に繋がっていた時間だ。


 しかも、強固な繋がりだった。


 本当の意味で、生死をともにしていた。


 母親の栄養分を受け取り、それを頼りに、生きていた。


 しかし、一度外界に出てしまえば、もう、二度と、他者とそんな関係を作ることはできない。


 せいぜい、手を繋いで、存在を確かめ合う程度。


 あるいは、抱き合って、お互いに体温を交換するくらい。


 それ以上の関係には、絶対になれない。


「おかしなことを考えているでしょう」落書きを終えた囀が、チョークを持ったまま振り返り、月夜に言った。「夜は、休息の時間だから、あまり、変なことは考えない方がいいよ」


「変なこと?」


「そんな顔をしているよ」


 月夜は自分の頬に触れる。


「今日は、何を読んでいるの?」


 囀に訊かれたから、月夜は本を持ち上げて、表紙を彼に見せた。


「なるほど。古典か」


「うん、古典」


「古典って、暗号解読みたいで、面白いよね」囀は話す。「英語もそうだけど、内容はともかく、読めたっていうだけで、達成感がある」


「囀が、いつも読んでいる本は、達成感があるもの?」


「どうかな……。図鑑とか、細部まで目を通すわけじゃないからね。ぱらぱら捲って、気になったページがあれば、ちょっと目を通すくらいだよ」


「ほかには?」


「ほかには、詩集とか」


「面白い?」


「図鑑よりは、面白いかもね。でも、それも、全部は読まない。なんとなく、勘で開いて、これだ、と思うものがあったら、読んでみるだけ」


「行間は、読まないの?」


「行間?」囀は笑った。「ああ、読むかもね。でも、なかなか難しいよ、それって」


「読まないと、テストでいい点がとれないし、学校でも上手くやっていけない」


「そうかもね」

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