第13話
二十分くらいしたところで、美術の教師がやって来た。まだ若い女性で、痩せている。月夜が事情を話すと、快く承諾してくれた。教師は準備室を通って教室に移動し、中から鍵を開ける。彼女は、これから職員会議があるといって、すぐにその場から立ち去った。見学が終わったら、そのままにして、戻って良いとのことだった。
美術室には、木製の大きな机が六つ並んでいる。一つ一つの机には、周囲にそれぞれ六脚ずつ椅子が配置されている。六、という数字に、何か拘りがあるのかもしれない、と月夜は考えたが、教室の広さと、机の大きさを考えれば、その数が一番纏まりが良いのかもしれない。
窓枠のちょっとしたスペースに、ほかの学年の生徒が作った工作が置かれていた。紙で作られているが、何か分からない。絵の具が塗られていて、奇妙な色彩だった。
部屋は、どちらかというと、埃っぽい。しかし、汚いという印象は受けない。適度に汚れている。生活感がある、とでもいえば良いか。
窓があるのとは反対側の壁には、硝子で覆われた棚があって、廊下から見ると、ショーウインドウのようになっているのが分かる。そこには、油絵が飾られていた。人の手を描いたものだ。
「なんか、いいなあ」教室の中をゆっくり歩き回りながら、囀が言った。
「囀は、美術が好きなの?」
「美術って、何だと思う?」
月夜は考える。
「絵画や、彫刻」
「それだけ?」
「私には、分からない」
「実は、僕もだよ」囀は笑った。「でもね、美術、という言葉の響きが、好きなの」
「言葉?」
「うーん、それも、少し違うかな……。言葉、というか、美術、という概念が好き、の方が近いかな」
「なんとなく、分かるような、気が、しない、でもない」
教室の後ろには、人物画のモデルにでもするのか、白い石材で作られた、上半身だけの人形が置かれている。西洋的な雰囲気だ。大半は布がかけられているが、いくつかは、それが剥がれて、生気のない目がこちらを見ていた。
「囀は、美術部に入るの?」
月夜が尋ねると、囀は彼女の方を見た。
「入らないよ。月夜は?」
「部活?」
「そう」
「入っていない」
「ま、そうだよね」
「どうして?」
「なんとなく」囀は話す。「そんな感じがする」
美術室の見学は、十五分ほどで終わった。廊下に出ると、もう生徒の声が溢れていた。階段を下り、教室に向かう。部屋に入り、それぞれ自分の席に着いた。
月夜は、昨日日直だったから、今日の担当者に日誌を渡した。日誌は、何のためにあると思うか、とその生徒に訊いても良かったが、変な印象を抱かれると思って、やめておいた。
担任が教室に入ってくる。しかし、まだホームルームが始まる時間ではない。
教室は、魂が解放されたように騒がしい。大勢の笑い声が木霊して、ハウリングみたいになっている。何も、具体的な内容は聞き取れない。つまり、雑音でしかない。けれど、聞いていて不快ではなかった。そこには、すぐ傍に人がいる、友達でも、全然親しくもない、ただの知り合いにも関わらず、人の暖かさ、人が傍にいるという安心さが、確かに感じられる。
結局、人は一人では生きていけない、という指摘は、間違えていないのだ、と月夜は思う。
結局、と断る意味は何か?
一人で生きていけないことはないと、抗おうとした爪痕か?
では、どうして、一人で生きていこうとしたのか?
どうして、そんなことを思ったのか?
なぜか?
抵抗こそが、生きるための活力だからか?
チャイムが鳴り、ホームルームの時間になる。全員で起立し、礼をする。そして、また着席。
教師が今日の連絡事項を伝え、それに少数の生徒が反応する。伝達がすべて終われば、受信する側は回線を断ち切る。
一時限目の授業は、古典だった。教室を移動する必要はない。
五分間だけ空き時間があるが、その間に、囀が月夜の傍にやって来た。
「何?」
彼女が何も言わないから、月夜は囀に尋ねた。
「今日さ、お昼、一緒に食べようよ」
「お昼?」月夜は話す。「私は、ご飯は食べない」
「月夜の分まで作ってきたから、食べてよ」囀は言った。「僕が、そうしてほしいの。迷惑かもしれないけど、どうしても、食べてもらいたい」
月夜は頷いた。
「分かった。じゃあ、食べる」
囀は微笑んだ。
古典の授業は、いつも通り退屈だった。退屈、というのは少し間違えている。内容が退屈なのではなく、やっていることがいつもと同じで、好い加減飽きてきた、というのが詳細な説明になる。
文章を読んで、内容を理解する。
しかし、それまでだ。
それ以上続かない。
そこから発展させて、何かを考えることは皆無に等しい。
なぜ、こんなことをやらせるのか、という問いの答えは、大学受験で必要だから、というものになるのだろう。
あまり、良くはない、と月夜は思う。
良くない、というのは、いまいち分からない感情だが……。
シャープペンシルを指で回して、空気を撹拌した。
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