第12話

「やあ、おはよう」にこにこしながら、囀が言った。


 月夜は軽く頷く。囀は月夜の右隣に腰かけ、鞄を膝の上に載せた。彼女はスカートを履いている。


「本は、面白かった?」月夜は尋ねた。


「ああ、うん、面白かったよ」囀は話す。「なかなかファンタジックで、うーん、最近読んだ中では、けっこう上位かな」


「最近は、ほかに、どんな本を読んだの?」


「色々とね」囀は身体を倒し、月夜の顔を下から覗き込む。「国語辞書とか、恋愛小説とか、子ども用の絵本とか、色々」


「本、好き?」


「好きだって、昨日言わなかったっけ?」


「うん、言った」


「好きという言葉を、聞きたいの?」


「うん、聞きたい」


「好きだよ、月夜」


「何が?」


「本が」


 いつもの駅で電車を降りる。人気はない。道路は、一部が凍っていた。昨日雨が降ったのか、それとも露が下りたのか、分からなかった。


「そういえば、囀は、どうして、今日も、こんなに早く学校に行くの?」


 道路を歩きながら月夜は尋ねた。


「月夜に、会えると思ったからだよ」囀は答える。「予想、当たってよかった」


 予想ではなく、予測ではないか、と月夜は思ったが、黙っていた。


「そういう月夜は、どうして? どうして、毎朝早く行くの?」


「遅れるよりは、いいから」


「遅刻は嫌い? 優等生なんだね、月夜って」


「遅刻は、好きではない。優等生というのは、違うと思う」


「夜遅くまで、学校に残っているからね」


「うん……」


 囀は楽しそうだ。


 月夜は、目だけで彼女の表情を確認した。


「今日さ、学校が終わったあと、出かけようよ」歩いていると、突然囀が提案した。「月夜さ、買い物とか、あまりしない方じゃない? 僕が案内するから、一緒に行こう」


「買いたいものは、ない」


「じゃあ、僕のショッピングに付き合って」


 月夜は頷く。


「分かった」


「やったね」


 学校の門が見える。隣の小さな扉から敷地内に入る。今日は、二人とも昇降口に向かった。ロッカータイプの下駄箱から上履きを取り出し、置いたままになっている教科書もリュックに入れる。反対に、今日使わない参考書は、下駄箱の中に仕舞っておいた。囀は、まだ教科書が届いていないようだ。


 階段を上り、教室に到着する。


「誰もいない教室って、最高だよね」自分の席に座りながら、囀が言った。


「いつも、自分がいる」


「それ、どういう意味?」


「自分をカウントするか、しないか、という問題」


「ああ、そういうこと」囀は頷く。「うんうん、たしかに、気づかなかったなあ……」


 基本的に、月夜の机の中には、何も入っていない。教科書の類は、すべてさっきの下駄箱に仕舞うようにしている。


「ねえ、月夜さ、ちょっと、学校を案内してよ」


「案内?」月夜は顔を上げる。


「そうそう」囀は言った。「まだ、慣れていないから、どこに何があるのか、教えて」


「いいよ」


 廊下に出ると、教室より寒かった。窓が所々開いているからだ。中庭の噴水は今日も凍っている。眼下に見える食堂の屋根には、薄く霜が貼り付いていた。


 廊下を進み、移動教室、音楽室、各科目の教員の部屋など、色々な場所を巡った。といっても、月夜もすべての部屋を知っているわけではない。自分とは関係のない科目の教室は知らないし、管理人室など、存在は知っていても、どこにあるのか分からない部屋もある。そういう意味では、学校探検は月夜も面白かった。途中で何人か教員とすれ違ったが、誰も二人を気に留めなかった。


 美術室の前にやって来たとき、囀がその中に入りたいと言い出した。


「鍵がかかっているから、開かないよ」月夜は言った。


「でも、入りたい」囀は催促する。「どんな感じか、見てみたい」


「どうして?」


「単純な興味だよ。月夜は、入ったことあるの?」


「一年生の頃に、何度か」


「気になる」囀は月夜の袖を掴む。「先生、呼んできてよ」


「まだ、来ていないよ」月夜は言った。「隣が、準備室だから、そこにいるはずだけど、まだ、電気が点いていない」


「じゃあ、ここで待っていよう」


「寒いけど、平気?」


「うん、全然大丈夫」


 そういうことで、二人で美術室の前に立ち尽くすことになった。


 月夜は正面を向いたまま固まり、囀は後ろを向いて窓の外を見ている。


 こんなふうに、二人で学校の中を歩き回るのは、久し振りだな、と月夜は思った。


 楽しくないわけではない。むしろ、心は躍っている。


 けれど……。


 心の底からは、楽しめなかった。


 心というものが自分にはあるのか、月夜は分からない。そして、何をやっても楽しめないのは、彼女の特徴だった。楽しい気はする。ただ、それが本当の意味で楽しいのか、分からない。楽しさの上澄みにだけ触れて、楽しんでいるふりをしているだけかもしれない。


 それは、楽しみだけでなく、悲しみも、寂しさも、すべてそうだった。美味しさだって、きっとその内の一つだろう。


 自分は、囀が死んでも、きっと悲しめないし、寂しさも感じられない、と月夜は思う。


 それは、いけないことか?


 世間的には、そうだろう。


 でも、人が死ぬのは、当たり前のことだ。


 それを、いちいち悲しんだり、寂しいと思うのは、なぜか?


 今日も酸素が存在しているのを確認して、喜ぶ人間がいるだろうか?


 両者は、当たり前という意味で、共通している。


 それなのに、どうして、違う問題として扱いたがるのか?


 不思議だった。

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