第3章 不平等
第11話
布団の中で目を覚ました。すぐ傍に、フィルの体温がある。月夜は起き上がり、軽く伸びをしてから立ち上がった。カーテンを開き、シャッターを上げる。まだ日は昇っていない。枕もとのデジタル時計は、午前五時を示している。空気は鉛のように冷えていた。
制服に着替えてから、フィルはそのままに、机に着いて勉強を始める。
朝のこの時間に勉強すると、なぜか集中できることが多かった。しようと思って集中することはないが、不思議と、今、集中できている、と実感する。集中しているときには、どんな雑念があっても、継続的に集中できる。本当に脳がはたらいているときは、自分を俯瞰的に見られるようになるみたいだ。
今日は数学の問題を解いた。月夜は、勉強を好きだと思ったことはないが、その中でも、数学は、まだ楽しい要素が多い、と感じる。覚えた方法を実際に使うのが、自分が成長しているみたいで面白いのかもしれない。実際に、それは成長できている証拠だし、勉強はそうやって進めていくものだ。けれど、古典とか、英語の勉強は、同じ性質を持っていながらも、いまいち面白さを感じにくい。この違いは、いったい何に起因するのだろうか。
途中で計算に行き詰まって、月夜はシャープペンシルを口に咥えた。
布団の方で気配がする。振り返ると、フィルが顔を上げてこちらを見ていた。
「やあ、今日も早いな、月夜」フィルが言った。
月夜は頷く。
「どうした? お腹が空いて、ついにペンを齧るようになったか?」
月夜は首を振った。
フィルは薄く笑い、大きな欠伸をする。
猫は、基本的に夜行性らしい。しかし、フィルは部分的には時間に束縛されていないから、どんな生活スタイルでも対応できる。もっとも、それは人間も同じだ。昼夜逆転生活を、逆転と認識していない人もいる。
何度考えても分からなかったから、月夜は教科書を見た。分からないところは、何が何でも自分の力で考え抜く、といったプライドは彼女にはない。教科書で調べるのも、自分の力を発揮している内だ。そして、そんな拘りは、ただ時間を無駄にするだけだ、とも思う。さらにいえば、時間を無駄にしない拘りというのも存在しない気がする。
解き方が分かって、なるほど、と彼女は思った。考えてみれば当たり前の話だった。しかし、それを当たり前と感じるのは、理論を逆に進んでいるからであり、正しい方向に進んだ場合は、こんなの分かるわけがない、と思うことが多い。
現実の社会も、きっとそうだろう。人間は、創造と破壊の歴史を繰り返してきたが、それを愚かだと感じるのは、現在から過去を振り返っているからだ。自分がその時代の当事者だったら、そんなふうには考えられない。
一時間が経過して、月夜は席を立った。
「もういいのか?」フィルが尋ねる。
「うん」リュックとブレザーを持って、月夜は部屋から出た。
蛇口から出る水は冷たかった。顔の感覚がなくなるような感じがする。手の感覚も一時的になくなった。一応、毎朝肌の手入れはしている。自分の美しさなんて、他人からしたらどうでも良いだろうが、なんとなく、そうしておいた方が良い気がする、というのがその理由だが、やめようと思えばいつでもやめられそうだった(あえてやめる必要もないが)。髪も、寝ていたから、当然、乱れている。手櫛で解し、プラスチック製の櫛でさらに梳かして、なるべくストレートになるように工夫する。もっとも、月夜はそれほど髪は長くないから、平均よりは時間はかからなかった。
リビングに入り、すべてのシャッターを上げる。
すぐに踵を返し、靴を履いて、月夜は玄関の外に出た。
途中までフィルも一緒だったが、散歩に出かけると言って、彼はどこかに行ってしまった。
人気のない冬の道を、月夜は一人で歩く。マンホールを踏んでみたが、特に滑らなかった。
寂れた駅舎に入り、改札を通って、ホームに立つ。
背後に自動販売機。そのモーター音が、この静かな街に似合っているように思えた。
空は、まだ滲むように明るくなり始めたばかりで、夜と朝の境界といえる。
雲が浮かんでいた。
間もなく、電車がやって来る。車内は空いており、月夜はいつもの席に腰かけた。たまに別の席を選ぶこともあるが、今日は意識的に昨日と同じ席を選んだ。そうすれば、囀に会える可能性が高い、と考えたからだ。
そして、予想した通りに、いくつか先の駅で囀が乗車してきた。
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