第10話
リュックからノートを取り出して、月夜はそれを開く。シャープペンシルを持ち、今日経験したことをそこに記した。
リビングの照明は灯っていない。
真っ暗だが、何も見えないわけではなかった。
フィルの瞳は、暗闇を照らすほど強い光を放っていない。
「月夜、外に出るときは、コートを着よう」
月夜がノートを自分の膝に置いたから、フィルは今は床にいる。
彼の方を見ないで、月夜は尋ねた。
「どうして?」
フィルは、前脚を伸ばして、月夜の膝に触れ、体勢を維持し、彼女の手もとを覗き込む。
「寒いと、風邪を引くからに決まっているじゃないか」
「残念ながら、コートを持っていない」
「じゃあ、買いに行こう」
「どこに?」
「どこでも」彼は話す。「今の季節なら、どんな店でも売っているさ」
「何色が、似合うかな?」
「さあ、白とかじゃないか」
「白、とか、というのは、ほかに、どんな候補があることを示しているの?」
「ベージュや、黒」
「どちらも、似合わないと思う」
「何を着ても、似合うと思うがな、月夜は」
「うん……」
「集中しているな」
「何に?」
「日記の執筆に」
「集中は、していない」
「では、今は、何に集中しているんだ?」
「何にも、集中は、していない」
「嘘だな」
「どうして?」
「新参者に、集中しようとしているだろう?」
月夜は顔を上げる。
「新参者?」
「今日、新しく会ったやつがいるんじゃないのか?」
「さっき言っていた、違う匂いがする人?」
「そうだ」
月夜は、数秒間黙ってフィルを見つめた。
それから、顔を下に戻しつつ、頷いた。
「そうかも、しれない」
「やっぱり」
「やっぱり、とは?」
「ある程度、予想していたんだ」
「何を?」
「そろそろ、目移りするんじゃないか、と」
「うん、ちょっと、言い方が、どうか、と思う」
「しかし、言っている内容は同じだろう?」
「さあ、どうだろう……」
日記を書き終え、キッチンに入って、機器を操作して湯を沸かす。冷蔵庫を開け、買っておいたお茶を取り出し、コップに注いで飲んだ。相変わらず喉は渇いていないし、お腹も空いていない。
リビングに戻ると、フィルがいなかった。
「フィル?」
月夜は声をかける。
見ると、硝子戸が開いていた。その向こうに、猫のシルエットが見える。
戸を開けた先は、ウッドデッキになっており、その柵の上に、フィルはちょこんと座っていた。
「どうしたの?」月夜は彼に尋ねる。彼の横に並び、頭を撫でた。「もう少ししたら、お風呂に入るよ」
「静かだ」
月夜は右手にある山を見る。
「うん、それは、いつもそうだよ」
「星が、綺麗だ」
「うん、それも、いつもそう」
フィルは月夜を見る。
「いつもではないだろう」
「うん、そうかな」
風が吹いた。
「これから、何が起きるんだろうな」フィルが言った。「地球は、どうなってしまうのか」
「……どういう意味?」
「何百億年か先の未来を、心配しているんだ」
「まだ、そんなに生きるつもりなの?」
「俺はもう死んでいるよ。そうではなく、ほかの種の心配をしている」
「フィルが、そんなことをする必要は、ない」
「それは、俺が決めることだ」
「そっか」
周辺にある家々の窓に、もう明かりは灯っていない。皆、眠っている。それぞれの人間には、それぞれの生活があり、そして、それぞれの人生がある。普段あまり意識しないことだが、窓の明かりの数だけ、家族が存在する。明かりだけ灯ることはない。
自分は、誰かと家族を作るだろうか、と月夜は考える。
そんな価値はないと思った。
価値がないというのは、自分に、家族を作るだけの存在意義がない、という意味ではない。そんな単純な話なら良いが、そうではなく、そもそも、家族というふうに、人の集まりを括る意味があるのかといった、根底を疑う思考といえる。
フィルは、自分の家族ではない、と月夜は思う。彼は、あくまで知り合いだ。それは、きっと囀も同じだろう。月夜には、友人と呼べる者がいない。いや、いるといえばいるが、いないといえばいない。そんな、曖昧な関係ばかりだ。
あと一年もすれば、高校を卒業して、新たな進路を歩むことになる。おそらく進学するだろうが、ほかの道もないわけではない。今まで基本路線に沿って生きてきたから、今後も、その方針に則るのが一番手っ取り早いだろう、と考えただけだ。その選択に拘っているわけではない。生きてさえいれば、あとは何でも良い、と月夜は思う。
本当は、明日死んでしまっても良かった。
一人で死ぬのは少し寂しいが、死んだら、そんな寂しさもどこかへと消える。
「お風呂に、入ろう」
月夜は、フィルを抱えて言った。
「ああ、そうだな」フィルは応える。
室内に戻り、硝子戸を閉めて、二人で浴室に向かった。服を脱ぎ、シャワーを浴びる。その間、フィルは一人で湯に浸かっていた。
「湯気が凄いな、月夜」水に浮かびながら、フィルが天井を見て言った。「まるで、揚げ物をしているみたいだ」
「揚げ物のときは、湯気ではなく、煙」
月夜は応えたが、シャワーの音で声は掻き消される。
「え、なんだって?」
「揚げ物は、美味しい」
しかし、なぜか、その言葉は伝わった。
「お前が、そんなことを言うはずがないね」
月夜は、シャワーを止め、フィルを持ち上げる。
「都合の良いことばかり、言わないで」
フィルは笑った。
「それは、こちらの台詞だ」
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