第9話

 アナウンスが響き、電車がホームに入ってきた。ここには、ホームドアは設置されていない。


 降りる人はいなかった。席も空いていた。


 月夜と、囀は、並んで座った。


 電車が走り出す。


 暫くの間、二人は無言。


 アナウンスだけが、自然音のように振る舞う。


 月夜は、手を持ち上げて、自分の掌と、囀の掌が、上手く結合している様を観察した。


「手を繋ぐのが、そんなに珍しい?」


 月夜は顔を上げる。


「うん、少し」


「繋いだこと、ない?」


「ある、少し」


「どう?」


「どうって?」


「その人と、僕の手は、違う?」


「違う、少し」


「もう、離したくないでしょう?」囀は月夜に顔を近づける。「いいよ、離さなくても。ずっと、このまま一緒にいよう」


「魅力的だけど、断る」


「うん、ストレートで、しかも、正しい回答」


「ごめんね」


「いいよ、謝らなくて」


 いくつか駅を通過して、囀は月夜より先に電車を降りた。別れ際に、彼はなぜかピースサインを月夜に向けてきたが、彼女にはその意味が分からなかったので、応じなかった。


 電車に乗り続け、間もなく月夜も下車する。改札を抜けて、駅舎を出ると、静かな街並みが目前に広がっていた。自動車の走行音が時折聞こえるだけで、人の気配、また動物の存在は、どこにも感じられない。


 空で星が輝いていた。オリオン座が見える。月は今日は見えなかった。


 駅舎から見て左右に別れる道を、月夜は左に向かって歩き出す。この一帯には、どういうわけか街灯が立っていない。だから、道は真っ暗だ。どこかに黒猫が隠れていても、きっと見つからない。


 だが、月夜は、彼がいるのに気づいた。


 彼女の知り合いの、黒猫のフィルが、道路の隅に行儀よく座ったまま、じっとこちらを見つめていた。


 傍に近づいて、月夜は彼を抱き上げる。


「ただいま」月夜は言った。「ずっと、待っていたの?」


 黄色い瞳をくりくりと動かして、フィルは答える。


「ずっとではないな。暫く、といえばいいか」


「なるほど」


「今日は、いつもより早かったな。何かあったのか?」


「何かは、あった」


「詳しく聞きたいところだが、寒いから、さっさと帰ろう」


「うん」


 月夜の肩に乗ったまま、フィルは自分の脚を舐める。彼は、歳の割には、身体は小さい。尻尾は適度に長く、今は先は丸まっていた。揺れていないところを見ると、それほど機嫌が良いわけではないらしい。


「今日は、誰かに会っていたみたいだな」フィルが言った。


「どうして、分かるの?」


「いつもと、違う匂いがする」


「どんな匂い?」


「分からない」フィルは答える。「ただ、お前の匂いでないことは、分かる」


「匂いで、人を判断しているの?」


「見た目で判断するよりは、悪くないだろう?」


「そうかも」


「学校で、そいつと一緒にいたのか?」


「うん、そう」


「何をしていた?」


「どうして、そんなに気になるの?」


「なんとなくな。別に、興味があるわけじゃないさ」


「フィルが、今、一番興味があるのは、どんなこと?」


「月夜に見つからないように、新しいガールフレンドを作ることか」


「それは、君の自由だから、私には関係ない」


 自宅に到着し、鍵を解錠してドアを開ける。閉めきっていたから、室内の空気は淀んでいる。洗面所で手を洗い、嗽をして、リビングに移動。リュックをソファに下ろし、カーテンを開け、シャッターを持ち上げて、外の空気を室内に取り込んだ。寒いが、暖房の人工的な空気に晒されるよりは良い。月夜がソファに座ると、彼女の膝にフィルが飛び乗ってきた。


「風呂に、入ろう」


 月夜は、フィルを見る。


「私と、一緒に、入りたいの?」


「一人じゃ入れないんだ。察してくれ」


「了解。察する」彼女は頷く。「でも、その前に、日記を書く」


「どうぞ、お好きに」

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