第7話

 長い把手がついた両開きの扉をこちらに引き、彼女は図書室に足を踏み入れる。そこに下駄箱があり、スリッパがいくつも並んでいた。月夜は上履きを脱ぎ、スリッパに履き替える。その先に、もう一枚の扉。しかし、そこにも鍵はかかっておらず、これで、司書がかけ忘れた可能性は一気に低くなった。


 二つ目の扉を開けて、月夜は中に入る。


 真っ暗だった。


 けれど……。


 天井に、懐中電灯の明かりが踊っているのが、瞬時に分かった。


 あの人物はここにいる。


 図書室の中央には、大きなテーブルがいくつか並べられており、そこは、集団で学習できるスペースになっている。その右手には個室のブースが存在する。それらのスペースを挟んで、書棚は左右に設置されているが、懐中電灯の明かりは、左側の天井に反射していた。足音は聞こえない。月夜は、スリッパに履き替えたから、静かに歩くのは難しい。なるべく音を立てないように扉を閉めたが、すでに相手に気づかれている可能性もある。


 誰もいないカウンターを通り過ぎて、左手に進む。書棚はそんなに高くないから、相手がどこにいるのか、すぐに分かった。


 人影が見える。


 その人物は、しゃがみ込んで、低い位置にある本を手に取って読んでいる。懐中電灯は膝の上に置かれているみたいで、だから、不安定で、光が揺れているようだった。


 月夜は、真っ直ぐ進んで、その人物の前に立つ。


 近くで見て、それが少年であることが分かった。


 彼はゆっくりと顔を上げ、彼女を見る。


 少年は笑った。


「君が、夜の万人?」


 月夜は首を傾げる。


「夜の、万人、とは?」


「噂で聞いたんだ」彼は立ち上がった。「こんなに遅くまで、学校に残っていたら駄目だよ、月夜」


 月夜は、自分の名前を呼ばれたから、驚いた。


「君は、誰?」


「僕?」少年は両手を広げる。「見て、分からない?」


 月夜は彼の姿を観察する。髪は程良い長さで、長すぎず、また短すぎもしなかった。黒いデニム生地のズボンに、黒いパーカーを身につけている。


「……囀?」


 月夜がそう言うと、少年は薄く微笑んだ。


「正解」


 彼は、その場で一回転し、正面に向き直って、深くお辞儀をする。


「どうぞ、よろしく」


「うん……」


「あれ、なんか、想像していたほど驚かないね」囀は月夜に顔を近づける。「君、ちゃんと、目、付いているよね?」


「どうして、こんな時間に、学校に来たの?」


「それ、僕も訊かなかったっけ?」


「訊いたかも」


「じゃあ、まず、月夜から教えてよ」そう言って、囀は再びその場にしゃがみ込む。「僕は、君の話が聞きたい」


「私は、なんとなく、夜の学校が好きだから」


「へえ、そうなの?」


「囀は、どうして?」


「うん、ちょっと、忘れ物をしたから」


「何を忘れたの?」月夜も、囀の傍にしゃがんだ。スカートが少し広がったが、気にしなかった。


「うん、あのね、本を借りようと思っていたんだけど、それを忘れたんだ」囀は月夜の足もとに目を向ける。それから、スカートを指でさして、直すように示した。「僕、夜は読書に時間を当てているんだけど、そのために、毎日、学校で本を借りるんだ。でもね、転校初日で色々と考え事をしていたのか、そんな肝心なことを忘れて、家に帰っちゃったんだ。だから、もう一回ここまで来て、読みたい本を探していた」


「そっか」


「そうだよ。どう? 納得した?」


「した」


「端的な回答だね、月夜」


「端的の意味が分からない」


 囀は笑った。


 囀には、どうやら、二つの人格があるようだ、と月夜は思った。いや、人格というのはおかしいかもしれない。意識、といった方が近いか。そして、人間は、普通、二つ以上の意識を備えているものだから、囀の場合だけそこにフォーカスするのも、やはりおかしいと感じた。


 ただ……。


 囀は、その二つの意識を、顕著な形で区別しているようだ。具体的には、服装の違いでそれを示す。日中、月夜は、囀の一方の姿を認識していた。そして、夜になったから、囀は趣向を百八十度転換した。そんな二面性を兼ね備える特異な存在と、初日から親しくなれたのは、もしかすると、運命かもしれない、という気がしないわけではない。けれど、運命などというものはない。少なくとも、月夜は信じていない。


 囀には、表と裏がある。いや、それら二つが、明確に区別されている。


 月夜は、そんな囀が、より一層好きになった。


 この感情は、確かだった。


 夜の学校より、囀の方が好きだ、と感じた。


 それは、束の間だとしても、素敵な感情に思えた。


 また、綺麗な感情にも思えた。


 いや、そう思いたかったのか……。

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