第5話
手もとから顔を上げて、月夜は前方に目を向ける。
囀の小さな背中が見えた。
彼女は、彼女だろうか?
……?
月夜は、今ふと思ったその疑問を、酷く不思議に感じた。
それは、どういう意味だろう?
どうしてそんなことを思うのか?
不明だった。
しかし、そんなふうに思うのは、そう思わせる何かが存在しているからだ。
もちろん、それは彼女の勝手な理屈にすぎない。
でも……。
そんな予感は、どちらかというと、当たる可能性の方が高い。
何かあると感じたら、何かあることの方が多い。
その逆もまた然り。
突然、囀が後ろを振り返る。
月夜と目が合った。
囀は楽しそうに微笑む。
月夜は、特に笑わなかった。
その代わりに、片方の腕を上げて、彼女に向かって軽く手を振った。
囀は、オーバーな挙動でそれに応じる。
月夜は、少し、嬉しくなった。
それでも、彼女が笑うことはなかった。
授業は進んでいく。
やがて五十分が過ぎ、教室を移動することになった。今日は午前で終了だが、科目の授業がないわけではない。次は世界史だった。月夜は椅子から立ち上がり、教室の出口へ向かっていく。
廊下に出たところで、背後から囀に声をかけられた。
「月夜は、どこに行くの?」
月夜は囀を見る。
「どうして、私の名前を知っているの?」
囀の名前は最初に聞いたが、月夜は自分の名前を彼女に伝えていなかった。
「さっきね、近所の人に聞いた」
「私の名前を?」
「そう」
「どうやって?」
「君を指差して、あの子、何ていう名前なのって」
月夜は頷く。
「で、どこに行くの?」
「下の階にある、世界史教室」
「世界史専攻なんだ。さすがじゃん」
「さすが、とは?」
「僕ね、日本史なの」囀は話す。「まあ、どっちも面白いとは思うけどね」
日本史の授業が行われる教室は、月夜が向かうフロアとは異なる。途中で月夜は囀と別れた。
目的地に到着し、月夜は自分の席に座る。
頭の中には、ずっと囀の姿があった。
自分は、どうして、こんなにも彼女に惹かれるのだろう、と月夜は自己分析する。
第一に、見た目に惹かれるものがあった。一言でいえば、美しい、と形容できる。可愛いのではない。月夜は、可愛いという言葉を、普通人間には使わない。それなら、格好良いの方がまだ使える。可愛いというのは、ハムスターとか、兎とか、その種の小動物に抱く感情だ。あとは、例外的に人間の子どもにも感じる。しかし、成熟した人間に感じることはない。囀は、月夜にとって、美しい存在だった。
第二に、月夜は、囀の声を好きだと思った。女性らしくない、といえば良いか。どちらかというと、少年らしい、低くも高くもない、微妙な声をしている。それが、格好良いと感じた。囀の声を形容する言葉は、可愛いではないし、美しいでもない。格好良いが一番当て嵌まる。
第三に、月夜は、囀の仕草に好感を抱いた。たとえば、囀は、歩き方がとても素敵だ。堂々としている、というと少々語弊があるが、一つ一つの挙動に無駄がなく、スムーズに前に進んでいく。膝を曲げる角度も適切で、計算されているような精緻さが感じられる。
担当の教師が部屋に入ってきて、世界史の授業が始まった。
月夜は、特に世界史に興味はない。ただ、世界史と日本史のどちらかを選択しなくてはならなかったから、適当に、世界史を選択した。どちらでも良かったが、どちらでも良い、という選択はできないから、五十音順で、世界史の「せ」の方が日本史の「に」よりも先という理由で世界史を選んだ。
この教室は、全然教室という感じがしない。背後には年季の入った木造の棚があり、その中に、世界地図や各地の遺跡を集めた資料が、忘れ去られたように仕舞われている。書籍は黄ばんでおり、ページは気力をなくしたように縒れている。
窓の外を見ようと思ったが、カーテンが引かれていて見えなかった。
冬なのに、どうして、カーテンを閉める必要があるのだろう、と月夜は不思議に思う。
遮断されているみたいだ。
遮断……。
そうか……。
学校は、遮断された空間なのだ。
社会から、あるいは世間から伝わる喧騒を、学校は完全に遮断している。
自分たちは学生で、社会の構成員の一人ではない。
自由だ。
その自由を阻害するように、月夜は教師から指名された。
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