第4話

 月夜は立ち上がり、廊下に出る。今度はそちらの窓から外を見た。中庭が見える。しかし、人はいない。見ると、中心にある噴水の水が凍っている。噴水から水は出ていないが、その下に溜まっている水が鏡のように光を反射していた。素晴らしい光景だ、と月夜は思う。


 水道で手を洗った。理由はない。ただ、水に触れたかっただけだ。


 ハンカチで手を拭き、自分の掌を見つめる。急に、誰かと手を繋ぎたくなった。


 そんな要求を、受け入れてくれる人がいるだろうか?


 あとで、囀に頼んでみるのはどうだろう?


 彼女は、きっと了承してくれる。


 そうしよう、と月夜は決めた。


 教室に戻る。


 自分の席に座り、ぼんやりとしていたら、教師が部屋に入ってきた。男性の教員で、彼はなぜかいつも白衣を着ている。理系の分野が専門だから、イメージとしては間違えていないが、普段から着用する意味はないだろう。


 彼の後ろには、少女が一人ついていた。囀だ。月夜が考えた通り、彼女はこのクラスに転入することになった。


 教室はすぐに静かになった。それはいつものことで、囀という、普段目にしない特別な存在が現れたからではない。教師が学級委員に号令を促し、全員が起立して礼をする。その間、囀は教室の入り口の辺りに立っていた。なぜか分からないが、彼女はにこにこしている。それが彼女の基本的な表情なのかもしれない。


 教師はすぐに囀の紹介を始めた。チョークを持って黒板に名前を記し、ここに転校してきた経緯と、客観的なプロフィールについて述べたあと、今度は彼女自身に自己紹介をさせた。いたって普通の内容で、誰もが微笑ましいと感じたに違いない。月夜は、それを聞いて、なるほど、自己紹介だ、と思った。そのため、詳しい内容は記憶に留まらなかった。


 もともと空いているスペースがあったので、囀の席はそこになった。月夜の席からは比較的遠い。彼女から見て右斜め前方で、さっきの電車と同じ位置関係だった。まったくの偶然だが、意識すれば、この種の偶然は様々な場面で見つかる。普段は意識していないだけだ。


 ホームルームが終わると、すぐに一限目の授業が始まった。冬休み明けだから、いきなり通常の授業が始まるわけではない。教室を移動する必要はなく、今後のスケジュールについて話を聞いたり、色々と事務作業をしたりと、意味のないことをする時間になった。もっとも、月夜はこうした時間が好きだ。明確に、好き、と明言できるほどではないが、科目の授業よりは楽しい。


 配布されたプリントに目を通しながら、月夜はそれとは関係のないことを考える。


 今日は、まず、メダカのことが頭に浮かんだ。


 この教室には、人間以外の生き物は存在しない。もちろん、ダニとか、細菌とか、目に見えない種類の生き物は存在するが、人間が、それを見て、生き物だ、と感じる種類の生き物は、この空間には見つからない。


 小学生の頃は、教室にメダカを飼う水槽があった。そんなことを、月夜は訳もなく思い出した。水槽を洗うのは当番制で、彼女も洗ったことがあったが、冬だったから、手が凍りそうなほど冷たくなった。そのあと、教室に戻って、メダカに餌をあげた。メダカは口を動かして、吸い込むように彼女が与えた餌を食べた。その光景が、当時の彼女には非常に穏やかに見えた。もちろん、今見ても同様に感じるだろう。しかし、自分が食べ物を与えて、それを対象が食べているのを見るという行為は、あまり積極的に体験したくない、とも思う。自分が支配者になったようで、頂けない。


 前の席からプリントの束が回ってきたから、自分の分を取って、それを後ろに回した。


 月夜は、今日の朝、何も食べてこなかった。食べたくなかったからだ。しかし、それは、今朝に限ったことではなかった。彼女は、基本的に何も食べたくない。味という名の快楽を得るのは、たしかに魅力的なことだが、ほかの生き物の死骸を口に含むのは、あまり好ましくない行為だ。普通なら、味を感じることと、味を引き起こす対象を口に入れるのは、セットになっているから、そんなふうに分けて考えるのはおかしい。けれども、彼女にはそうした思考回路が存在している。本来分けて考える必要のないものを、ついつい分けて考えてしまう。それは、欠陥と捉えられるが、美点ともいえなくはない。人間は、分類をしたがる生き物だ。だから、その能力に長けていることが、直接不利益に繋がる事態は考えにくい。

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