第3話

 何のために生きているのだろう?


 今、窓を開けて、そこから飛び降りて、死んでしまおうか?


 少しだけ、月夜はわくわくした。


 その情景を思い描き、自分の血液が地面に霧散する様をシミュレーションする。


 綺麗だと思った。


 気持ち悪くはない。


 物理の法則に従って、器官が、組織が、細胞が、空気中にばらまかれる。すべて、誠実にルールに従って、物質は自らの運動を全うする。


 素敵だ。


 でも、今はそうしようと思わなかった。


 そんなことは、想像の世界でいつでも体験できる。


 まだ、現実世界で実行するには早い。


 でも……。


 誰かから、それをしろと言われたら、五十パーセントくらいの確率でするだろう、とも思った。


 三十分くらい経った頃、ふと顔を上げると、窓の外で雪が降り始めていた。いや、今降り始めたのではないかもしれない。彼女が気づいたのは、今だった、という意味だ。


 月夜は椅子から立ち上がり、窓の傍に近づく。


 下を見ると、運動部の生徒が走っていた。こんなに寒いのに、外で運動するのは、大変ではないだろうか、と彼女は考える。しかし、走れば身体は温まるから、特に辛くはないのかもしれない。


 そのまま、窓の外をぼうっと眺め続けた。


 月夜は、今日も夜まで学校に残るつもりだった。今日も、と断るのは、いつもそうしているからだ。しかし、冬休み中は学校に入れなかったから、久し振りだった。彼女が、そうして夜の学校に滞在することに、特に深い意味はない。なんとなく、そうしたいだけだ。家に帰っても誰もいないし、場所を移動しても変わることはない。それなら、本当はいてはいけない時間まで学校に残って、ちょっとしたスリリングな経験をした方が、まだ有益というものだ。


 しかし……。


 家に帰っても誰もいないというのは、少し違う。


 動物を、誰、と表現して良いのであれば、彼女の家には一匹の猫がいる。


 彼は、彼女の知り合いだった。


 そう、知り合い……。少なくとも、月夜と彼は、飼い主とペットの関係ではない。


 対等、もしくはそれ以上の関係だといえる。


 教室の後方で扉が開いて、生徒が一人入ってきた。月夜は振り返らなかった。このクラスには、彼女の相手をする者はいない。別に、嫌われているわけではなかった。学校には、ただ、なんとなく、誰とも話さない、または誰からも話しかけられない人間が、必ず一人はいる。そのポジションに、たまたま月夜がついてしまっただけだ。ついてしまったというのは、被害を受けたような表現だが、それは間違いだ。月夜は、それを不幸なことだとは思っていない。自由を獲得しやすいから、むしろその状況を歓迎している。


 続けて、さらに二人三人とクラスメートが登校してきて、教室に短い挨拶が飛び交った。しかし、彼らもそれほど深い仲ではないから、会話は続かない。冬休みが開けということで、新年の挨拶を軽く済ませたら、すぐに皆無言になる。まるで人間と地球の関係を示唆しているようなやり取りだ。


 月夜は自分の席に戻った。もう、勉強する気にはなれなかった。


 携帯電話を取り出して、メッセージが届けられていないかを確認する。何も届いていなかった。


 前方の席に座る一人の女子生徒が、月夜のもとにやって来た。


「今日、日直だから、よろしく」その女子生徒が彼女に日誌を渡した。


「分かった」月夜は日誌を受け取り、彼女に頷いてみせる。


「今日も、寒いね」


「うん」


 沈黙。


「じゃあ、よろしく」


「了解」


 女子生徒は自分の席に戻っていった。


 日誌を開き、月夜は今日の時間割を書き込む。一日の出来事を記録するスペースには、まだ何も書けない。今日も、いたっていつも通り、何の変哲もない、普通の授業が展開される予定だ。平和だから、問題はない。試験もまだ先だから、何も心配することはない。穏やかな時間が流れ、気づいたときには放課後になっているだろう。


 ただ、今日は、少しだけ、いつもと違った出来事が起こる。


 クラスメートは、それを知っているだろうか?


 その情報は、今使えば価値がある。けれど、あと一時間もすれば、価値は完全になくなる。


 でも、月夜は何も伝えない。


 伝える相手がいない。


 そして、伝えたいとも思わない。


 できるなら、知りたくもなかった。


 しかし、囀と話せたのは、彼女にとって幸いだった。


 月夜は、一瞬で彼女に好感を抱いた。


 その感情は、なぜ生じたのか?


 好感を抱く必要はあったのか?


 異性でもないのに、そんなふうに好きな気持ちを抱いて、何になるというのか?


 まあ、何でも良いか……。


 もう、自分は、そう、思ってしまったのだ。


 事実は変えられない。


 自分は、囀と友達になりたい、と望んでいる。


 だから、彼女に、自分の気持ちを伝えた。


 それだけのことだ。


 それだけの……。

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