第117話 関係
「迷える子羊の不安を少しでも和らげてあげるのです! 行きましょう、アース!」
「なんで俺まで……」
記憶喪失患者。
そもそも記憶を無くすっていうのがどれほどのことなのか、ピンとこない。
『トレイナ。記憶を戻す魔法とかってあるのか?』
相手が記憶喪失なら、記憶を取り戻させることはできるのかと試しに聞いてみた。
すると……
『記憶を消去する魔法。魔法によって消去された記憶を取り戻す魔法。対象者の過去の記憶を読み取る魔法。そういったものはある。だが、たとえば事故や頭部への強い衝撃などで記憶を失った者の記憶を元に戻すことはできんな』
『へぇ……そうなのか』
となると、今回担ぎ込まれたというその患者を元に戻すのは、魔法では無理ってことか。
それじゃあ、便利な魔法でアッサリ解決、というふうにはできねーか。
『脳は非常にデリケートだからな。事故などで記憶を失った場合、一生そのままのパターンもあれば、ふとした瞬間に思い出すこともある。あまり深入りせず、医師や時間に任せることだな』
トレイナの言うとおりだ。
純粋無垢なクロンは、そんな可哀想な患者を勇気付けたり、力になろうとしているようだが、俺がそこまで関わることでもない。
「こちらにいるのですね!」
「ええ」
多少は力になってやってもいいかもしれねーが、俺だってやるべきことがある。
赤の他人のために時間を費や―――――
「おお、あんた方。すまんのう朝から。ほれ、この娘じゃ……って、女神様まで!?」
「うふふふふ、ごきげんようです!」
講堂に入った瞬間、俺は次の瞬間固まってしまった。
「おはようございます、かな。イーシャ先生。それで、その人かな?」
「ごきげんよう!」
講堂に居た、白衣を着た老婆……医者なのだろうが、その婆さんではなく、その隣に居る……
「ね、ねえ……先生……」
「どうしたのじゃ?」
「この人……何者……かな?」
「ん? じゃからそれが分からんからこうやって……」
「普通にしているだけで分かるよ……こ、この人……メチャクチャ強いんじゃない……かなぁ?」
頬に僅かに汗を掻いて、そこに居た女を評するツクシの姉さん。
それは間違ってねえ。
だって、そこに居るのは……
「おはようございます……その……朝から私のためにご迷惑をおかけして申し訳ありません」
俺が生まれたときから一緒に居た、俺が良く知る女。
「サディスッッ!!??」
そこに居たのは、俺が欠片も予想していなかったサディスだった。
「アースくん?」
「アース?」
「なんじゃ? お前さん、知り合いかえ?」
え? なんで? サディスがどうして? 知り合い? 知り合いどころじゃ……え?
あれ? 俺、逃げないと、でも、あ、記憶?
「あなたは……?」
そして、俺の胸がありえないほど締め付けられた。
思い出した。
「あっ……あ……アナタハ……あ……」
そう、記憶喪失。あ、記憶喪失って……だって、ありえない……俺の顔を見てサディスがハッとして……
「ッ、う、あ、ッッッ!? あ、ああああああ!?」
「え……? さ、サディス!?」
俺の頭が全く整理できない中、サディスが途端に頭を抑えて苦しみ出した。
「ぬっ、どうしたのじゃ?」
「あの、落ち着いてください、だ、大丈夫ですか?」
「え? あの、あら? ど、どうすれば……」
声を上げて苦しむサディスに慌てる一同。
でも、俺はすぐに動くことが出来ず呆然としたままで……
『こやつ……巻き込まれていたのか……』
どういうことだよ、トレイナ。なんで? なんでここにサディスが……
「あなたは……わ、たしを知っているのですか?」
「……え?」
すると、頭を抑えながら、そしてその両目に涙を浮かべた悲痛な表情でサディスが俺に顔を向けて尋ねてきた。
知っている? 知ってるどころじゃねーよ。
お前は俺の……俺の……何だ?
サディスは……今は……俺の何だ?
「ごめん……なさい……」
「え?」
「分からないのです……でも……ごめんなさい……」
俺の答えを聞く前に、ゆっくりと立ち上がりながら、ふらふらと俺へと寄ってくるサディス。
激しく動揺し、しかしそれでもその目はずっと俺を見つめている。
俺は、今までで一度もこんなサディスの表情を見たことがない。
「ただ、分からないのですが……私は絶対あなたに何かを……あなたに何かをしてしまったと……どうしても謝りたいと……そして……」
「サディス……ッ!?」
そして、サディスは俺をゆっくりと抱きしめて……強く……離さないように……この温もりは……この香りは……あ、だめだ、俺も……もう、切り捨てた過去で……もう振り返らないと決めたのに……
「どうして? ただ、私はあなたを……二度と離したくないと思ったのです」
「ッッ!?」
違う。
俺は、謝罪の言葉なんて聞きたくなかった。
もう、受け入れられないから。
だから、俺は帝都を飛び出したんだ。
許すとか許さないとかじゃない。
もう、無理だったから。
あんなこと……
―――やめて! おとーさんが! おかーさんが! 大魔王に、おじさんが、おばさんが、おじーちゃんが、おばーちゃんが、みんなが! 大魔王に殺されるッ!!
だって、俺はサディスをあんなに……俺がサディスをあんなに悲しませて……
「あの~、アースのお知り合いなのですか?」
「どういうことかな? アース君」
そんな俺が今、サディスとの関係を何て言えば……どういう……でも……でも!
「おぼ……て……な……なら……」
『童……』
「勝手なこと……言っ……て……じゃねえ」
もう十分俺は泣いた。立ち上がった。誓った。なのに、こんなことってあるかよ!
「アース……くん?」
「アース? どうしたのです?」
心が揺れる。目頭が熱い。どんどん溢れ出て来る。
もう、止まらない……
「覚えてねぇなら、かんったんに謝るんじゃねぇよぉ!!」
「……あ……」
俺を抱きしめていたサディスを身を捩って引き剥がした。
前が見えないぐらい目の前が歪んで……カッコ悪いぐらい……みっともなく俺は喚き散らした。
「何が悪かったかも分からないのに! 覚えてもいないのに! とりあえず、ごめん? ふざけんな! 簡単に吐き捨てるな! 本当に、苦しかったんだ……つらかったんだ……心が……痛かったんだ……でも……俺は……前へ進むために切り捨てたんだ! 全部……今までの全部を捨てて……俺は、そうやって立ち上がったんだ!」
クロンが……ツクシの姉さんが……シスターが……医者が戸惑っている。
でも、もう俺は気にしている心の余裕が無かった。
「お……ぼえ……てすら……いないなら……だったら、もう、出てくんなよぉ! なんで、なんで邪魔するんだ!」
「……申し訳……ありません……」
「ッ、謝んなっつってんだろうが! その言葉を聞きたくねえから……逃げてたってのに……何で、俺の気持ちを無視して言うんだよっ! なんで……なんで……なん……で……だよ……」
俺を何だと思っている? しかし、分かっている。今のサディスにこんなことを聞いたって答えられるはずがない。
だって、今のサディスは俺のことを何も覚えていないからだ。
だから、こんなことを、心が不安定になっている今のサディスに言っても、混乱するだけ。心を痛めつけているだけ。
弱っている女を罵倒している風にしか、周りには見えないだろう。
でも……こんなの……あんまりだった。
「ほぉ……こんなことになっていたとはな」
そのとき、ゾッとする威圧感と共に、講堂に闇の入り混じった声が響いた。
振り返ると、そこに立っていたのは、ヤミディレ。
「あら? ヤミディレ……」
「あ、だ、大神官様」
「これはこれは……あっ、この娘が身元不明の娘でして……」
ヤミディレは、クロンやツクシの姉さんや医者を通り過ぎ、俺とサディスの元まで歩み寄る。
状況がまるで分かっていないサディスは、ただ狼狽するだけ。
「ふっ……神に謝罪せねばな……私も不完全に覚えた魔法ゆえ……連れてくる気の無かった者まで巻き込んでしまったようだな。座標がズレていたのか、気づかなかった。しかも、なかなか面倒そうな手錬を……」
その言葉で俺もようやく分かった。
そうか、俺がここに連れ去られた魔法。アレでサディスも飛ばされていたんだ。
でも、そのことにヤミディレ自身も気づかなかった。
記憶は何か関係が? 飛ばされた場所が俺とズレていた? 頭でも打ったか?
分からない。ただ一つだけ分かっていることがある。
「いずれにせよ、アース・ラガンは私がもらったのだ。そして、三ヵ月後には……ふふふふ……我が女神と……ふふふふふ! まぁ、そういうわけだ。さっさと離れよ」
分かる。敵意だ。ヤミディレがサディスに対して敵意を向けているということ。
「あっ……あ……あ……え?」
「記憶が無い? なら、排除の手間が省けて良かったのかもしれんな」
すると、不思議だった。
俺は今の今まで俺とサディスの関係性を表す言葉に迷っていたというのに、怒りや悲しみの入り交じった感情で心も頭もぐちゃぐちゃになっていたというのに、この瞬間だけは迷わなかった。
「今……取り込み中だ……」
「あ゛?」
「邪魔するんじゃねぇよ」
気づいたら、ヤミディレの前に立ちはだかっていた。
浜辺では、圧倒的な力の差に恐怖で足が竦んで動けなかったのに、俺は何も考えずに動くことが出来た。
「ほぉ……そんな禍々しい眼もできるんだな」
「ああ……そんだけ、イラついてんだよ……ぶつけたい相手にぶつけられねーから……余計にな……」
「……ガキが……」
次の瞬間には、俺の生意気な態度が癇に障ったのか、押しつぶすような威圧感が俺に。
当然、講堂内には緊迫した張り詰めた空気が流れ、ツクシの姉さんたちも言葉を失ってたじろいでいる。
だが……
「んも~……患者さんの前ですよ! メっ!」
「ぬっ!?」
「ん~……メっ!」
「はうっ……つ、く、クロン様……」
その空気をまるで読まず、まるで怯まず、頬を膨らませたクロンが、俺とヤミディレの頭に軽く手を置いた。
「って……テメェ、何しやがる!!」
「……アース……」
「俺の話を聞いてたのかよ! 今、取り込み中っつってんだろうが!」
思わぬ茶々に……空気を読まないクロンの能天気な声に……俺は更にイラついて声を荒げた。
「ちょ、あ、アースくん!? め、女神様相手に何てこと言うかな!?」
「なな、なんじゃ……こ、この若者は……」
「おい……アース・ラガン……クロン様に無礼な口を……」
相手は女神? 女? クロン? 知るかそんなもの!
「何も関係ねえ奴はすっこんで……」
「アース」
何も知らない箱入り娘は黙ってすっこんでろと叫びそうになった。だが、寸前で言葉に詰まった。
「アース……落ち着くのです」
「つっ……」
「アース」
「だ、から……」
「アース」
「うっ……つっ……」
能天気なクロンの言葉にイラついたのは確かだ。
でも、俺の名を呼び、そして俺から一切目を逸らさずに、そして真っすぐ見つめるクロンの目は、どういうわけか強い意志を秘めているような気がした。
その目で見つめられると、自分が女々しくて、みっともないと思わされる不思議な気分だった。
「では! 落ち着くために……皆で早朝ティータイムにしましょう!」
パンと手を叩いて、微笑みながら提案するクロン。
もう、自分でもどうすればいいのか、そして自分はどうしたいのかがまるで分らなくなり、気付けば俺はその場でへたり込んでしまった。
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