第39話 選んだ先の後悔

 いつまでも家の前で車を停めておくわけにもいかない。

 ちゃんと駐車して車を降りる。陽菜ならこの音で僕の存在に気づく。

 いや、誰でも気づくか。

 ……どんな顔で話せば良いのだろう。どんな顔を合わせれば良いのだろう。最初になんて言えば良いのだろう。

 車を降りて扉の前。ドアノブに手をかける。右手には鍵を握ってあるけど。


「はぁ」


 終わるための活動。後悔を残さないために。

 そんなものをあっさり受け入れろなんて、簡単に言えるわけがないのに。僕は……。はぁ。


「辛気臭い顔してますね」


 ドアの向こうから響く声。それはよく知っている声。


「陽菜、だよな」

「他に誰がいますか?」

「乃安は?」

「先に休ませてますよ」

「そっか」


 何も聞かない。僕たちは。

 いつも通り、どこまでも、いつも通り。

 用意されていた温かいお風呂。汗を洗い流して湯船で温まり、上がればテーブルの上に夕飯が用意されていて。食べ終われば皿が下げられて。

 いつも通り、何事もなかったかのようで。僕だけが気まずさを感じているのかと錯覚する。けれど。

 僕は陽菜のことを知っている。

 陽菜も僕のことを知っている。だから。

 目が合った。それだけで伝わるものがある。

 お互い、どう切り出せば良いかわからないということ。このまま何もなかったことにしていつも通りに戻るのも良いのではないかと思っていること。

 手に塩を付けて傷口を抉りに行くのではなく、炊き立てホカホカご飯で塩おにぎりを作る方が良いのではないかと。

 わかっている。自分が結論を急ぎ過ぎたことくらい、わかっているんだ。

 わざわざ蒸し返すなんて……陽菜が帰ってきた。それで良いじゃないか。

 それで、いいじゃないか。

 なぁなぁで終わるのか。


「あー……えっと」


 頭の中に響いた冷たい声に押し出されるように意味の無い声が虚しく響いた。


「相馬君」


 遮るようにそう言って、陽菜はトンとマグカップをテーブルに置いた。わざと音を立てたのだとわかる。


「私は逃げました」

「あっ、いや……それは……」

「相馬君が何を言おうと、私は全てを投げ出して逃げました。それは変わりません。でも、私はどうしても割り切れませんでした」

「それは……それは、僕が陽菜の気持ちに寄り添えていなかっただけで……」

「えぇ、正直、悲しかったです。でも……きっとそういうものなんだと思います」

「え、えと……」

「勘違いしないでください。諦観ではありませんし、相馬君が悪いわけでもありません。本当に、そういうものなんです。きっと、悲しみに慣れていかなきゃいけないんです。目を背けても、逃げても、この痛みは胸の内からいなくなってはくれません。だから、慣れていくしかないんです。……ゆっくりと、少しずつ。だから」


 唇を噛むように、けれど、息を大きく吸って、吐いて、陽菜は顔を上げて。


「どうか私の傍で……行く先を示してほしいです。進む道を、照らしてほしいです」


 そう言って微笑んだ陽菜に、僕は静かにうなずいた。


「うん……」


 そして、僕も忘れないでいよう。

 結局のところ、僕たちは他人なんだ。いつも一緒にいて、これからも一緒にいる。そう信じている。それでも、僕は陽菜の気持ちをわかれなかった。陽菜を追い詰めてしまった。


「謝るのだけは、やめて欲しいです。相馬君」

「え……?」

「私も謝りません。それで良いと私は思います」

「……そうだね」


 これが、私、朝野陽菜が選んだ結末だ。

 人と人がわかりあえるわけがない。どんなに近づいたつもりでも、それでも、例え手を伸ばしても届かない。

 結局は手を伸ばしあわなきゃだめだ。そうやってお互いがお互いを求めて、ようやく指先がようやく触れ合える、そんな距離に近づける。

 許しあう。

 繋がりの中でもつれた糸を解く、一番の方法。

 与えあった傷を舐めあう。

 甘えなんて言わせない。そんなぬるま湯の中で、私たちは生きていたい。

 せめて帰る場所くらいは温かくて良いじゃないか。

 

 

 それから、僕たちは最後を考えた。

 後悔が少ないように。

 あとで、良かったと思えるように。


「あのまま逃げてたら、私は後悔ばかりが積もっていたと思います」


 ノートパソコンから顔を上げた陽菜はそう言って目を閉じて。


「あの時、ちゃんと踏ん張っていたらと。戻ってきて良かった、そう思います。結局のところ、人はやらないことを選んだ場合、ずっとやった場合の未来が頭にチラついてしまう。その逆もですけど」


 やった結果失敗した時、あぁ、あの時やらなければ、なんて。


「でも、今回は違います。逃げて、逃げて、どこまでも逃げて……最後のその時に間に合わなくて、後から知った時。過ごせたかもしれない時間がきっと、ずっと、この先も頭の中で囁き続けるんです」


 隣に立った陽菜はそっと手を握って。


「『親不孝者』、と囁き続けるんです。だから、私が逃げてしまわないように、繋いでいてください。引き留めていてください」


 あぁ、僕はまだ、陽菜の全部を知っているわけじゃないんだ。

 こんな風に縋るような声、初めて聞いたと思う。

 陽菜は強い人だ。でも、無敵なわけじゃないんだ。


「うん。わかった」

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