第37話 悪い子の夜明け。
「陽菜、酒ってのはな、今の自分を教えてくれるんだ」
メイド長は酒好きだ。ワインもビールも日本酒も焼酎もウイスキーも、その他世界の色んな酒、どれもこよなく愛する。
そんなメイド長に一度だけ聞いたことがある。どうしてと。どうして飲むのか。
合理的じゃない。
判断能力、思考能力、身体機能が低下し、場合によっては記憶も意識も飛ぶ。どんなに強くたって、ザルと言われるような人だって。絶対じゃない。飲み過ぎれば肝機能だって低下する。
正直私は、酒なんてものは飲むべきですらないと思っている。
そんな私にメイド長は言った。まだ私が候補生の頃だ。確か、メイド登録試験を受ける前夜だったと思う。
「今自分がどれを飲みたいか、食事とともに飲みたいか、そういうわけでないのなら、つまみはいるか、いるならどういうのか。別にいらないか。いらないのなら何を共にするのか」
その時のメイド長が何を飲んでいたのかは覚えていない。
「選んだ酒を美味しく飲めているか。これが一番肝要だ。つまみなんてものは本来必要はない。それこそ景色でも楽しみながら飲めるのが一番心が健康なのだよ」
「どんな景色、ですか」
「君たちが学びに励んでいる景色とかだな。何をやっても美味しく飲めないのなら、それは心が健康ではない何よりもの証左となる」
「はぁ」
「ふっ。今はわかるまい。だが、いずれわかるさ。酒は心の鏡。うちに秘めたもの、その本性も、不安も、悩みも、何もかもを映し出す。そして、心が健康なら何よりも美味いものになる」
目を開けた。
なんか、暑い。額に汗をかいているのがわかる。
「……なつき、さん」
「んー? どったの」
「いま、なんじ、ですか?」
「三時。本当にお酒、弱いんだね」
「えぇ」
「可愛かったよぉ、陽菜ちゃん。めっちゃ甘えてくれるなんてねぇ」
「えぇ……そんな記憶ありませんよ」
「そっか。……陽菜ちゃんのお母さん、がねぇ」
「あぁ、私、ちゃんと説明、してたんですね」
「うん。してくれた」
テーブルには空になった缶が六本しっかり並んでいた。……私が空けたの、多分せいぜい一缶だろうなぁ。
「これ、飲み切れると思わなかったな」
「すごいですね」
「陽菜ちゃんが話、聞いてくれたからだよ。覚えてるかな?」
「それは、はい、かろうじて」
「そか」
夏樹さんの、大学に入ってからの話。
置き土産の、話。受け入れられなかった話。
「多分、私が子どもなんだろうね」
「そんなこと、ありませんよ」
「中学生レベルの夢見がちな価値観に付き合えってのが、無理だったと思う」
「そんなことないですよ。価値観は、すり合わせるもので。どちらか一方が押し付けてそれを無理に受け入れることなんて、なくて」
「うん」
「一人で、決めちゃだめで。ちゃんと聞かなきゃ、だめで」
「うん」
「お互い、どうしたいか、ちゃんと話さなきゃ、だめで。少しずつ譲り合う。言葉にすれば、簡単なことが必要で」
「うん」
「だから……夏樹さんが間違えたのは、そこだけ。だから。夏樹さんの考え方が悪いなんてことは、ないんです」
「うん」
「やるべきこと、怠った……それ、だけ……」
急に頭が冷えてきて。
あぁ、これが酔いがさめるってこと、なんだなぁって。
「陽菜ちゃん、私と同じ失敗、しないでよ。譲ろうとして無理して、でも結局ダメで拒んでしまう。小さなズレもどんどん大きなものになっていく。時がたてば治るなんて、無いんだから」
ふと見たテーブルの上。そこにはグラスに半分ほど残ったビールがあって。
「あ、いーけないんだ」
「……どうしてでしょうね」
すっかりぬるくなってて、炭酸も抜けてるのに。
三口ほどかけて、飲み切って。
「味、悪くないです」
「んー私には、良さ、わからなかったよ。美味しかったけど、また飲みたいとは思わない。きっと今日が特別なんだよ」
「私もです。でも、また飲みましょう。その時、きっとわかりますから」
「うん。楽しみにしてる……あー、汗かいたなぁ、また一緒にシャワー浴びよっか」
「そうですね」
「ねぇ、陽菜ちゃん」
「はい」
「……ありがとう」
「それは、私の言うべきことですよ」
「ううん。陽菜ちゃんが肯定してくれたんだよ。私の子どもじみた価値観を。地元に帰った時は忘れて楽しめたけど、やっぱり戻ってきて一人になったら思い出しちゃってさ、いつまでも、高校時代に縋ってる」
「いつでも縋ってください。高校生にはできない遊び方で歓迎しますから」
「あはは。楽しいにしてる」
悪い子の夜は終わる。
いけない夜更かしは終わる。
日常の手が追いついた。優しい月明りから今日を告げる朝日のもとに私たちを連れ出す。お天道様のもとでは歩けないような私たちは、その眩しさに耐えられない。
だから、悪い子な私とは、今だけは、さよならだ。
「緊張してる?」
「……えぇ。でも、本当に良いんですか?」
「うん、だって、一番の友達だもん。陽菜ちゃんが心細い時は、隣にいて支えたい」
じわっと、胸の内に熱いものが溢れたのを感じた。夏樹さんは躊躇なく新幹線の切符を買う。
「それに、お母さんに連絡したら無理矢理有給ねじ込むって言ってたし。里帰り里帰り。えへへ。新幹線代も渡してくれるって」
「そ、そうですか」
ちゃっかりしてるところも相変わらずだ、夏樹さんは。
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