第36話 悪い子は目を閉じて。
陽菜が帰ってこない。夜になっても陽菜は、家に帰ってこなかった。
パソコンの画面、右下のデジタル時計はまさに20時を示していて。
「先輩……」
「……うん」
僕は、急ぎ過ぎた。失敗した。はっきりと自覚した。
「落ち込んでもなんにもならないよ」
「わかって、います」
画面の向こうの志保さんはやれやれと笑う。陽菜と友恵さんと晴明君の旅行について相談していたところだった。
「まぁ落ち着きなよ。どこに行ったかはわかってるからさ」
「……はい……え?」
「信じて待ってみたら? 君が何から何までどうにかしなければならない、そんな子じゃないでしょ、彼女は」
飛び込んだ駅で私は新幹線の切符を買った。三分くらいして来た新幹線に飛び乗ってそれから一時間。近いようで遠かった。
改札を走り出て。画面もろくに見ずに操作したスマホはちゃんと、私が求めている連絡先に電話をつないでくれた。
『やほー陽菜ちゃん。グッドタイミング。いまバイト終わったんだー。どしたの?』
「は、はっ、はぁ、な、なつき、さん」
『え? 陽菜ちゃん? 走ってる? できるなら息を整えてから……』
「夏樹さん!」
「え?」
「ばいと、さき。えきまえっ、な、なんですね」
見えていた後ろ姿に向けて、手を伸ばす。
ふわふわとした後ろ髪を揺らして振り返ったその人は、スマホを下ろして。
「はぇ、なんで?」
と、流石に驚いたようで。
「ごめんなさい、どうしても、会いたくて」
体に染みついた動作に従って頭を下げた。
「う、ううん。あーじゃあ、泊まる?」
「あ、……すいません、お願いします」
「荷物は?」
「あ、……すいません」
夏樹さんはふっと表情を緩めて。
「まぁおいでよ。お泊り会、しよ?」
「は、はい」
手を握られた。
泊めて欲しいなんて一言も言っていないけど、一目会えたらそれでよかったけど。でも、心のどこかで私は。
夏樹さんに頼っていた。
今の相馬君の傍に、私は、いられない。
自分を責める声が聞こえる。
私はどうして、添い遂げる、一生を捧げると決めた人から、逃げ出しているんだ。
私が弱すぎるのか、相馬君が強すぎるのか。
とにかく、釣り合ってない。
ちゃんとしなければいけないのは私。私なんだ。私なのに。私は、相馬君を支える人、なのに。
「いやー、ごめんねぇ、お風呂狭くて」
「でしたら、今からでも私、一回出ますよ」
「いやいやいや。めっちゃくっつけるという大きい利点があるんだよ、小さい湯舟」
「はぁ、それは確かにそうですが」
夏樹さんの家に来て早々、私はお風呂に連れ込まれた。なぜ。
「確かにって……ほほう」
「お察しの通りですがこれ以上何も話しませんよ」
「ふーん。結婚って見定めてる?」
「どうでしょう、乃安さんのこともあります」
大学に行って法律について専門的なことを学び始めて。この国がどのように秩序を保たれてきたのか、まだ基礎の範囲でも学んでいって。気づく。
私たちの関係が如何に世間から見れば歪で、歓迎されていないのか。
重婚罪。一夫一婦制を守るための法律。必要性を疑問視する声は多いが、確かに存在するもの。
「例えば私が相馬君との婚姻届けを出して、そのうえで乃安さんと暮らす分には何の問題もないんですけどね」
法の限界。事実上の重婚まで罰しようとすれば、刑法が私生活まで立ち入ることを許してしまう。
「そもそも民法が重婚そのものを禁じていますが」
「んー。話が逸れてるなぁ」
「すいません」
「まぁよくわかったよ」
「何がです?」
「陽菜ちゃん、余程現状から目を逸らしたいんだって」
目を伏せる。
「湯舟、はいろか」
「どんな風に一緒に入ってるの? 相馬くんと」
「……友人のその辺の話って聞きたいものなんですか?」
「まぁ、興味は無くはないかなぁ」
「はぁ……」
私は夏樹さんに背中からもたれかかるように座る。
「ほう。これは」
「私は、こんな風です」
「私は……乃安ちゃんは違うんだ」
「……そこらへんは本人に聞いてください」
はぁ、話がどうも生々しい方向に。
「今はさ、楽しい話しようよ。お風呂で大事な話とか、のぼせちゃうから。ほら、どんな風に相馬くんとイチャイチャしてるのさ」
「私の話ばかりでなく。夏樹さんの話も聞かせてくださいよ」
「えー。何が聞きたいの?」
「そうですね……先生、になるんですよね」
「うん」
「小中高、どれですか?」
「高校かなぁ、高校時代って大事だと思うんだ」
「それは、どうして」
「高校ってさ、ほら、受験って過程をほぼ確実に踏むじゃん。中学受験小学受験もあるにはあるけどさ。まぁ大半の人は近くの小学校に入ってそのままメンツも変わらないままエレベーター式に地元の中学校に行くわけじゃん」
いまいちピンとこないけど、多分その通りなのだろう。世の中の普通。
「でも、高校ってほぼ同じ、なんだろう……言い方はあれだけど、ほぼ同じレベルの頭の良さの人達が集まるわけじゃん。人間関係もほぼリセットされて。今まで気の合う人たちが見つからなかった人も、無二の親友や沢山の友人が見つかるチャンスなわけじゃん。私はそれを手伝いたいな、って」
「素敵、ですね」
「でしょ。頑張らなきゃなぁ」
沈んでいく。未来を見つめる瞳が、声が、眩しい。
「それで、どうしたのさ」
「夏樹さん、それは」
「あぁこれ、置き土産みたいなものだよ。私が飲んでたわけじゃない」
「はぁ」
冷蔵庫の中、六缶パックのビールが置いてある。ポツンと隅の方に。
「置き土産……」
「そ。置き土産。いる?」
「いりませんよ。そもそも弱いですし」
「あー、未成年飲酒、いーけないんだー」
「はぁ。間違えて飲んだと言っても信じなさそうですね」
「んー。普通は信じないけど、陽菜ちゃんなら信じなくもない」
「完全に信じると言わないのが、夏樹さんの良いところですね」
「あは。ドライだなぁって?」
「そうは言いませんよ」
夏樹さんは冷蔵庫から缶ビールを一つ取り出し、グラスに注ぐ。泡を立てながら注がれていき。
「ふふん、どうだー」
「お見事です」
泡と液が見事な割合で構成されていた。
「で、飲むんですか?」
「注いじゃったしね。んで、どんな機会で飲んだのさ」
「大学入学してすぐの頃ですね。付き合いで行った飲み会で、お冷と間違えて日本酒を飲んでしまいまして」
「あー。匂いで気づかなかったんだ」
「お店の匂いでまぎれて気づかなくて、飲んでから気づきましたが、吐き出すわけにもいかないじゃないですか」
「あぁ、まぁ、ほら、日本酒って基本的に度数高いし」
「そのあと、相馬君に少しからかわれまして。悔しくなったので」
「故意に飲んでるじゃん! 故意犯じゃん!」
「むっ……」
「あはははは、陽菜ちゃん、相変わらず負けず嫌い」
そう言いながら、夏樹さんは平然とグラスを傾ける。
「……にがっ。え、にがっ。こんなの美味しそうに飲んでたのか、あの人」
「そんなにですか?」
「飲んでみる?」
「やめときます。未成年なので」
「そだね、火遊びで済むうちに収めるのが良いよね」
そう言いながら流しにグラスをひっくり返そうと構える夏樹さんの笑顔は、どこか乾いて見えた。
「夏樹さん?」
「んー?」
「飲みましょう。私も付き合います」
「え?」
「全部、全部、吐き出しましょう! 今日だけ、一緒に、悪い子になりましょう!」
「陽菜ちゃん……?」
きょとんと首を傾げた夏樹さん。でも。
「ふふっ」
少しずつ綻んで。
「あはは、悪い子か、あはは、うん。わかった」
「簡単なおつまみ作りますね」
「うん……お菓子箱になんかあったかな……」
少しだけ、心臓がうるさい。いけないのはわかってるけど、いや、わかっているからだ。ちょっとだけ、ちょっとだけ。
「ふふっ」
「楽しい?」
「はい」
今、私がいる現状。それが背後から少しずつ、少しずつ、私を現実に引き戻そうとする。それでも一晩、一晩で良い。
目を、閉じたいんだ。
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