第二話 旅先の景色に。
修学旅行。布良夏樹は、地元から出たことが無い。旅行の経験が無い。修学旅行というものに恵まれていなかった。小学校の頃も中学校の頃も、体調不良で行けなかったのだ。
今思えば、自分の知らないところに行くことを、無意識に拒否していた。閉じ込めた筈の弱気な自分が。兄がいなくなってしっかりしようと思っていても、しっかりと足を引っ張って来たんだ。
だけど今日、私は、ちゃんと集合場所にいる。
「はぁ」
「浮かない顔ですね。珍しく」
「あっ……お、おはよう。陽菜ちゃん」
誰もいない駅前の広場。ぼんやりと駅舎を見上げていると、後ろに微かな足音。陽菜ちゃんは殆ど気配も足音も無い。たまに音もなく後ろにいることがあるから、心臓に悪い時もある。
「おはようございます。具合がよろしく無いのですか?」
「う、ううん。ちょっと早置き過ぎかなーって」
「そうですね。いつもより少し早いですから、眠れましたか?」
「うん、ちゃんといつもより早く寝たから」
陽菜ちゃんの澄んだ目は何もかもを見透かしてそうで。たまに緊張してしまう。
「そ、そういえば、相馬くんは?」
「少しコンビニに寄ると。お手洗いでしょう」
と言う陽菜ちゃんの手にはトランクケースが二つ。黒の方が相馬くんだろう。
「陽菜ちゃんは? 緊張しないの?」
「そうですね。少し。外の世界に行く時はどんな時でも、少しの緊張があります。夏樹さんもですか?」
「そう、だね」
問いかけながらも、陽菜ちゃんの目は確かに、私の中の強張りを見抜いていた。
「夏樹さん」
「うん?」
「楽しみましょうね。初めての世界とは、きっと輝いていますから」
「……うん」
輝かしい新しい世界なんかよりも、知っている箱庭の方が良い。臆病な私がそっと呟いた。
「……仲の良い友人たちと旅行に行く。私の一つの夢でした。修学旅行自体は行ったことはありますけど、ここまで誰かに心を許せたのは、初めてのことだったので」
私は陽菜ちゃんのことをよく知らない。無理に知ろうとする気は無いけど、それでも、あまりにも知らない。
知らないことに起因する疎外感。相馬くんや乃安ちゃんが知っていることを私は知らないし。私の知らない大変なことを、相馬くんたちは乗り越えている。
秘密を許し合える関係。一つの理想だけど、これは秘密なのだろうか。隠しては無いけど伝えるほどのことでも無いことは、秘密なのだろうか。
「ねぇ陽菜ちゃん」
「はい」
「最近、どうかな? 充実してる?」
「はい、おかげさまで」
陽菜ちゃんはそう言って微笑む。
「そ、そうなんだ……あのさ……」
陽菜ちゃんの微笑み。いつからか見るようになった表情。
どうしてだろう。それを見ていると、その先の言葉が、どうしても出てこなくなる。口が、上手く動かなくなる。声の出し方を、忘れてしまったかのようで。
「えっと……ごめん。何でもない」
なんて、逃げてしまう。
そもそも、何を聞こうとしたのか、私の中で定まっていなかった。いや、違う。
聞きたいことはあるけど目を背けて見えていないだけだ。この感覚は、覚えがあるんだ。
「おはよう、夏樹」
「あ、相馬くん」
コンビニの袋を手にぶら下げてこちらに歩いてきた相馬くん。中身はお菓子と缶コーヒーが入っていて。
「トイレ借りるだけなのはなんか恥ずかしくてね」
なんて苦笑して。
「新幹線で一緒に食べようよ」
「うん!」
いつも通りの笑顔。出来ているだろうか、私は。
「見て! 陽菜ちゃん! 山だよ!」
「そうですね。山ですね。そろそろ五回目ですが。地元でも散々見ているではないですか?」
「そうだけどさ。うーん」
山、山、たまに住宅街、山、山。景色が変わり映えしなくて、外に出た実感があまり無いのだ。
景色を後ろにすっ飛ばす勢いで走る新幹線は、少しワクワクするけど、もう少しこう、実感が欲しい。
「まぁ、あと一時間もすれば、見慣れない景色というものが見られると思いますよ」
「うん!」
不思議なものだ、出発してしまえば後は到着した先の景色が少しだけ楽しみになる。現金なものだ。
「はい、夏樹」
「あーりがとっ!」
差し出されたチョコレートをパクっと食べると。
「ん?」
「あっ」
変な食感だ、少ししょっぱい気がする。何だろう……。
「な、夏樹。指」
「ふぉめん。んん、おいち」
「えぇ……」
「一本ちょーだい」
「怖いって」
「えー」
なんて言ってると、陽菜ちゃんが相馬くんの逆の手を取り。
「では、こちらは私が」
「おいおいおい」
「はぁ……」
隣に座る桐野君が、げんなりとしたため息を吐く。
「なんだろ、仲良きことは美しきことかなとか、思うわけだが。こうも見せつけられると、な」
なんて言ったものかと一瞬唸ってそれから。
「……なるほど、これが爆発しろという感情なのか」
と、一つの真理に辿り着いて、それからニッと口の端を吊り上げるように笑って。
「程々にな……子どもできて退学とか勘弁してくれよ」
「ならないよ」
「そうですね。なり得ませんね」
と、二人とも確信があるかのように苦笑いと共に頷いた。
それからしばらく。
「ビルだ! 陽菜ちゃん! ビルだよ!」
「ふふ、結局それですか」
土地代が高いからとか、そういう事情のせいだとわかっていても、やっぱり高い建物が並んでいる光景を見ると、ワクワクする。
「ハンバーガーショップ、一階がレジで、二階が食べるスペースだそうですよ」
という陽菜ちゃんの情報、目的地がここでは無いとは言え、乗り換えるだけとは言え、ワクワクは膨らんでいく。
「楽しみだなぁ」
心から漏れた言葉。私も驚いた。あぁ、素直に修学旅行楽しめているんだなぁと。
だから安心した。
新幹線を乗り換え、東京から私たちは京都に向かう。
「布良さん」
新幹線に乗り込んですぐ、声をかけてきたのは担任の先生。
「はい」
「進路希望調査、出して無いの布良さんだけだから、修学旅行終わってからで良いから、出してね?」
「はい」
「あなたはそんなに心配してないけど、一応、聞いておかなきゃいけないから」
「すいません」
現実は、旅先にも容赦なく追いかけて来た。
「夏樹さん、出してないんですか?」
「陽菜ちゃんは、出せたんだね」
「はい」
「そっか」
居心地のいい日だまりのような温かさのある箱には。そこから一歩踏み出す勇気。
一人一人、いなくなっていく。
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