第148話 メイドと傷口。
「あっ、乃安」
「? あ、先輩。お疲れ様です」
移動教室。一人で廊下を歩いていると、目の前の角を曲がって来たのは乃安だった。パッと表情を輝かせて駆け寄って来る。
「移動教室ですね? なるほど、地歴選択を地理ですか」
「うん。乃安は?」
「私も地理ですかね、選ぶなら。ちなみに私は職員室の帰りです」
僕の言葉足らずの質問から想定される二通りの求められる答えをきっちりどっちも 返して見せた乃安は。
「では先輩、授業頑張ってください。失礼します」
と、そのままペコリと頭を下げて僕の横を抜けていく。確かに十分休憩はもうすぐ終わる。けれど、乃安の態度に違和感を覚えたのは間違いなくて、けれど、その原因の一端に思い至らないほど僕は鈍く無くて。だからこそ、呼び止める言葉が思い浮かばなくて、結局見送るだけになる。
「やっ、相馬君」
「あぁ、夏樹」
「乃安ちゃんと会ったよ」
「うん」
「実は見てたよ」
「うん」
「情けない顔しない」
「うん」
頷くだけの僕の頬に、夏樹の手が伸びて。
「あいたただだだ」
「情けない顔、しない!」
「わか、わかた、はな、いだ」
夏樹のジトっとした目、ふわふわとした髪が夏樹の感情に呼応して蠢いているように見えた。ひりひりする頬。どこかどんよりしていた頭がスッキリしたように感じた。
「私は言ったよ、壊さないで欲しいって」
「わかってる」
「わかってるなら良し。叶えてくれれば完璧」
「採点が甘いよ。僕の上司」
「褒めて伸ばすタイプなので」
「なぁ、陽菜、乃安のこと」
帰り道、その日も乃安は先に帰った。掃除当番だった陽菜とそれを待っていた僕を置いて。
「僕さ」
変な予感だ。でも、多分間違えていない。
「僕さ、乃安が離れていく気がしたんだ」
止める資格なんて無い。僕は選んだ。その先どんな結果が待っていても、受け止めるしかないはずだ。それでも。
「なんか、嫌なんだ」
選んだ先には、どちらを選んだとしても、後悔は絶対に待っている。わかっていた筈だ。だけど。
「このまま受け入れたポーズをして、見ない振りをして、ずるずると残り時間を過ごしたくないんだ」
夕焼けに照らされた道。刺すような冷たい風が吹いた。真っ直ぐ歩いていけば駅前。制服姿の高校生がちらほら見える。
「陽菜?」
陽菜は先程から僕の言葉に一言も答えない。
「あのー陽菜さん?」
「相馬君」
「はい」
「私といる時に他の女の話ですか?」
顔を上げこちらを見上げた陽菜の顔はすとんと感情が抜け落ちたかのように何も浮かんでいなくて、キュッと心臓が締め付けられるような感触に襲われた。
「あのー。陽菜さん?」
「という冗談は置いておきまして。……そうですね、相馬君の言葉には、理解を示します。ですが、そうですね……難しいお話ですね」
陽菜が微かにため息を吐く。そう、難しいのだ、これは。
恋人いる人が、恋人作らない人に、恋人いるの良いぞー、お前も作れよー、と言うことよりもタチが悪い。
お互い何となく腫れ物を触らないように気をつけて立ち回っていた方が誰も傷つかないかもしれない。けれど。
「陽菜は、さ。初恋って」
「相馬君です」
「あぁ、はい」
「そう言う相馬君の初恋は、莉々さんですか?」
「えっ、なんで?」
「そんな気がしたのですが。違いますか? 例えそうだとしても、何も怒る要素は無いので、気にせずお答えください」
どうだっただろうか、ヤバい、改めて言われるとどっちかわからない。
「どうなんだろ、莉々と一緒にいる時、あまり考えたこと無かったから」
「本当ですか? 恋したい盛りの中学生ですよ。それに莉々さん、磨けば光る素晴らし逸材だと思っていますが」
「恋がわからなかった」
と、初心な乙女みたいなこと言ってるな、僕。
「そういうものですかね。では、相馬君にとって恋とは」
「傍にいて欲しいと思える人ができることかなと」
そういう意味では、僕は。
「結構欲張りだ」
「そうですね。でも」
少し先を歩き立ち止まり、陽菜は振り返る。
「そういうところにも私は惹かれました。妥協できない不器用な頑固さが、素敵だと思います」
「褒められてるのか?」
「私には美点に見えると申し上げています」
「そうか……」
「さて相馬君、諦めの悪い相馬君はどうされるおつもりですか?」
考えるけど、結局のところ。
「僕は正しいのかな」
陽菜を選んだうえで乃安に手を伸ばして良いのだろうか。
今回は今までと違う。だって僕はもう。乃安に傷を負わせているんだ。
傷口に手を突っ込んでかき回すような無神経さ。
「相馬君」
「はい」
「いちゃいちゃを要求します」
「えっ?」
「イチャイチャを要求します。つきましては今晩、相馬君の部屋に伺いますので、そのおつもりで」
「う、うん」
家に帰ると、乃安はいつも通りの顔で、少しだけ距離を離して。
乃安とちゃんと話したい、というのは駄目だろうか。
「ふむぅ……ん? どうぞ」
「失礼します」
扉が開くと、宣言通り陽菜がいて。真っ直ぐにベッドに座る僕の隣に腰を下ろす。
「相馬君」
「はい」
「どうぞ」
「何が?」
「どうぞ、私をお好きになさってください」
「えっ……うん」
とりあえずベッドの上に胡坐の姿勢、その上に陽菜を乗せて、抱きしめて。
「うん。落ち着く。なんかサイズ感が丁度良い」
「……そう、ですか。はい、私、小さいので」
温かいし良い匂いするし、程よく柔らかいし。
「陽菜は良い抱き枕だ」
「光栄です。相馬君って欲張りですけど欲が無いのですね、あまり」
「欲しいものは欲しいけど、あまり欲しいものが無いんだよ。僕は僕が大事にしたいものが傍にあれば、それで良いんだ」
そう、結局のところそうなんだ。その願いを遂行するためにどうしたら良いのか、願いのために誰かを、大切な人の傷口を抉る勇気、それが無いんだ。
陽菜が寄りかかるように身体を預け、それから。
「わかりました。相馬君の願いは。では相馬君、今晩は私を抱きしめ眠ると良いです」
「何が『では』なのかがわからない」
「嫌ですか?」
「嫌、では無いけど」
そう。僕にも欲が無いわけではなく、しかも今、ちゃんと正式に付き合っているのだ。その状態でそんな魅力的な提案をされては。だって何の準備もしてないのだ。
「まぁ良いじゃないですか。大体のことは若気の至りで処理できる歳ですし」
「そんな言い訳が成立する行いはあまり存在しないと思う」
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