第86話 メイドにいってきますと告げること。

 「すいません」


 膝の上で眠っていた乃安が目を覚まし。開口一番にそう言ってペコっと頭を下げた。そんなに時間は経ってない。十分程度の出来事だ。


「良いよ。気にしなくて。夏樹の様子、見てくる」

「はい、行ってあげてください」


 二階の陽菜の部屋で休ませていた夏樹。階段を上がっていくと、丁度陽菜が出てきた。


「夏樹の様子は?」

「一見すれば落ち着いています」


 頷きを交わしてノックする。


「夏樹? 大丈夫? 入るよ?」

「うん。大丈夫だよ」


 いつも通りの声。乃安だったら、これだけでも何かを感じることができるのだろうか。扉を開けると、ベッドに腰掛ける夏樹がいた。


「えっと……夏樹」

「なぁに?」


 クイっと小首を傾げて夏樹は柔らかく微笑む。


「えっと、大丈夫?」

「うん。大丈夫だよ。お兄ちゃん」


 真っ直ぐに僕を見ていた。いや。僕を見ていたけど、見ていなかった。僕を通して、夏樹は今、何を見ていた。

 夏樹はどこかとろんとしたものに代わり、ボーっとした目に変わる。


「夏樹?」

「あれ。あは、ううん。なんでもないよ」


 けれどすぐに、それは幻だったかのように、夏樹はいつも通りの表情を顔に貼り付けて見せた。

 その傍に跪いた。

 守ろう。絶対に。僕は、立ち向かうと決めたのだから。


「……肩の力、入り過ぎてるよ」


 夏樹の両手がそっと僕の肩に置かれた。


「気負わないで良いの。私は、大丈夫だから。頼れる委員長だから」


 僕はどうしてかその時。立派な大樹に育ってるのに根が浅い。あべこべな樹を思い浮かべた。


「大丈夫だよ。夏樹。僕は一人じゃないから」

「うん。それがわかっているなら。大丈夫」


 僕を一人にしてくれない人。

 僕が一人にしない人。

 僕に手を差し伸べてくれた人が、いるんだ。


「行ってくるよ」

「うん。いってらっしゃい」


 外に出ると、乃安が紅茶とクッキーを乗せたトレイを持って立っていた。


「頼んだよ。乃安」

「はい」


 階段を下りると。九重君と萩野さんが、既に準備万端という様子で立っていて。


「行くか行かないか。ここで決めろ」

「行くよ。立ち向かわなきゃ、僕は僕でなくなってしまう」

「良い答えだ。行くぞ」

「でも、ちょっとだけ待って。……陽菜」


 怒られるだろうか。

 僕に荷物を差しだして、自分も行く気満々の陽菜に、僕は。

 いや、それでも、僕は。陽菜に頼みたい。


「陽菜、どうか。待っていてくれ」

「相馬君……?」

「ここを、守っていてくれ。僕の、帰る場所を、守っていてくれ」


 陽菜なら、きっと。1僕の言いたいことをわかってくれる。それは甘えかもしれない。でも、逆に、陽菜なら、わかった上でNOならNOと突き付けてくれる。陽菜はNOを言える人だから。


「陽菜の気持ちはちゃんと聞いた。その上で。ごめん。お願いだ。ここを、守っていてくれ」


 だから僕は、重ねて、頭を下げた。


「それは、命令ですか?」

「お願い、かな」


 陽菜は迷うように顔を伏せた。正直、ズルい言い方だと思う。でも、僕は。僕は、ちゃんと帰ってくるために。何もかもを、投げ出してしまわないために。

 情けない言葉を重ねようと口を開きかけたその時だった。


「相馬君は確かに、ちゃんと繋ぎとめておける場所が無ければ、ふらふらとどこかに行ってしまいそうな、そんな危うさはありますね」


 なんて言いながら一つ頷いて。


「良いですよ。ただし、もしも帰って来なかったら、地の果てまで追いかけて、引っ張ってでも一緒に帰ります。よろしいですか?」

「それのどこが罰なのやら」

「それともう一つ。少し、屈んでいただけますか?」


 そう言われ、膝を少し曲げて腰を低くした。その瞬間だった。

 肩を掴まれ、顔を引き寄せられ。ぶつかるように陽菜は唇を重ねてきた。僕の唇と重ねた。少し湿った感触にあっさりと頭が痺れて。ただ触れただけなのに何かの神秘を悟ったような。

 顔が離れた後も、ボーっとした気分は残って。


「これであなたは私を忘れられなくなりました」


 なんて言葉に、ただ頷く事しかできない。


「これからどこに行って何をしていようとも、頭の片隅には私がいます。あなたは帰らずにはいられなくなるでしょう」


 ただ、壊れた人形のように首を縦に振ることしか、できなくなる。


「……そろそろ良いですか?」


 萩野さんの冷静な声に、ようやくまともな思考を取り戻して。


「行って来る」

「はい。いってらっしゃいませ」


 そして僕たちは、夜の闇の中、家を出た。 





 敵は明日の夜、動くらしい。

 目的は、今回の誘拐事件を指示した輩を捕らえること。

 隣県のとある街では確かに暴行事件は増えており。関連性が伺えると。


「ところでさ」

「なんだ?」


 夜の高速道路を慣れた様子で飛ばしながら、九重君はちらりとルームミラー越しに僕を見た。


「なんで、僕が関われている?」


 そう、急に僕は、この事件に関わることができた。一般人だからと萩野さんは最初、僕を引き離そうとしていたのに。


「……結愛」

「はい。説明します。我々の上層部は、日暮相馬さん。あなたに、我々の組織に加わっていただけないか、そう考えています」

「組織……?」

「うちの上層部はお前に、俺と結愛が所属する部署、特務分室で仕事をさせたいと考えているらしいってことだ」

「特務分室?」

「特に特殊性の高い任務を担当する部署です」

「まぁ、俺達はあんま積極的に勧めないけど。上司から言われたから伝えておくし、連れて行く。とりあえずは、選択肢の一つとして、じっくり考えてくれ」


 後部座席に深くもたれかかりながら、僕たちは前に座る二人の背中を見る。


「日暮さん。眠っていても問題ありません」


 タブレットから顔を上げずに、萩野さんはそう言った。


「むしろ寝ておくと良いさ。俺も次のサービスエリアで少し仮眠をとる」

「了解です」


 仕事、か。

 二人のやっている仕事を、僕が。

 陽菜なら、なんて言うんだろう。ふと頭に浮かんだのは、乃安の涙で。

 きっと少し前の僕なら、特に考えもせず、頷いていたんだろうな。そんなことを思った。

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