第85話 メイドと楽になる選択。

 僕は知った。一人で傷ついて、本当に救われる人がいないこと。

 僕は知った。僕が傷ついたら、涙を流す人がいることを。

 僕は知った。自分を投げ出す行為は、ただの逃げでしかないことを。

 僕は知った。僕が幸せであることを、望む人がいることを。



 乃安の目は、蕩けるような熱を持っていて。その熱は容赦なく僕を甘美な選択肢に浸そうと、溶かそうとしてくる。


「先輩、大丈夫です。私が許します」


 耳元でそっと、囁かれる。普段は聞こえないような息遣いまで伝わってくる。触れ合う部分からは、規則正しい鼓動が伝わって来て。


「逃げだと、臆病だと責めてくる人からも、私が守ります」


 弱い僕を肯定してくれる人が、確かにそこにいることを、主張してくる。


「先輩、先輩は十分に頑張りました。これ以上頑張ったら、頑張れなくなっちゃいますよ。これから生きること。人の頑張りには限りがあるんです」


 気がつけば壁に背中をついていて。

 乃安は逃がさないと、押し付けるように、全身を。僕は壁から離れられなくなる。

 ふわりと香る、乃安の香りに肺が満たされて、頭がボーっとした。芳醇な甘みを感じる香り。何かのフルーツの香りだったと思う。


「もう休みましょう。未来があるんですから。あとはもう、普通に楽しみましょうよ、高校生活。先輩は大学とか行くんですか? これからは楽しいことありますから。辛かったことも悲しかったことも、思い出で埋めてしまいましょうよ」


 私は気づいていた。最初に桐野先輩のアパートにお見舞いに行った時に、このアパートにいないと。

 私が見ていたのはアパートの扉の上に設置されていた電気メーター。ピクリとも動かなかったから。冷蔵庫とか固定電話とか、Wi-Fiルーターとか、他にもコンセント差しっぱなしの家電の待機電力で、電気を一切使っていない時間なんて、人が暮らしている限り、無い筈なのに。

 持っていない可能性もゼロでは無いけど、私は桐野先輩がいなくなったことに対して確信めいたものを抱いていて。でも、知らせなかった。そのまま静かにフェードアウトしてくれるなら。いなくなった時に衝撃があれど、立ち直れる。なんなら、新しい出会いがあったばかりだ。だから私は、この出会いが今後の友人関係に繋がるように立ち回るのみだった。

 本当、面倒なことをしてくれた。

 簡単に終わらせてくれないなんて。本当、酷い話だ。でも、まだ間に合うんだ。

 相馬先輩からも、陽菜先輩からも、夏樹先輩からも、苦い感情の味がする。この苦みを、終わらせたい。 

 私の平和な世界を守るために。先輩達の苦しみを終わらせたい。だから。


「先輩。言いづらいなら任せてください。私が代わりに伝えます」


 私が守ります。

 先輩が守ろうとした世界は、私も守りたい世界だから。

 守ります。何が何でも。

 守ります。


「どうしますか? 先輩」


 先輩は自分の選んだことに必要以上に責任を持とうとする。その気質を、今は利用させてもらおう。

 先輩が、私に任せる。私の提案に乗る。それを選べば。この話は、終わりだ。


「先輩、選んでください」


 平和な世界を。美味しい感情で満ちる世界を。それはきっと、優しい世界だから。

 そんな小さな世界を、守りたいと思ったから。


「先輩……さぁ」


 乃安の声は、どこか、遠い響きがあった。

 それは何かに祈るような。何かに願うような。

 僕は。僕は、陽菜に出会ってから、色んな事が変わった。

 でも、一つだけ、変わっていないものがある。

 僕は僕自身でしかなくて。僕は僕しか持っていないということだ。だから差しだせるものも僕しかない。


「だから……僕は。乃安が見せてくれた可能性を、選べない」


 それを選んだら、僕は僕ではなくなってしまうから。


「どうして、ですか」

「それは、僕が陽菜に誓ったことを、裏切ることになる」


 僕が僕でしかないのなら、僕を全うしなければ、ならない。


「意味が、わからないです。何でそんな、だって。痛くて、苦しいじゃないですか」


 その時、僕は、朝比奈乃安という人物を、垣間見た気がした。笑顔の仮面の裏を、見た気がした。

 そっか……。乃安は……。


「ごめん。乃安」


 気がつけば抱きしめていた。

 そっと、上手くできているかわからない。包み込むように、安らかに、眠ってしまえるように、抱きしめた。


「ごめん。乃安、僕は。それでも。嘘は吐けない。でも」


 君にも、嘘は吐かない。


「絶対に、帰ってくる。絶対に」


 僕は見てしまった。

 迷子の少女のような顔を。


「信じろとは言わない。でも、証明する」

「なにを、ですか?」 

「君を、一人にはしない。絶対に。一人に、しない」 

 

 僕が、僕という存在が、必要とされている限り。僕は、絶対に、帰って来よう。



 どれくらいそうしていたのだろう。気がつけば乃安に膝を貸していた。すやすやと安らかに寝息を立てる彼女を、眺めていた。

 トンと肩を叩かれた。振り返ると、そこにいたの陽菜で。


「ありがとうございます。相馬君」


 と、そっと耳元で囁いて。階段を上がっていく。夏樹のところに行ったのだろう。

 状況は見えていて。やるべきことは見えていて。でも、事情が見えていなくて。

 なぁ、京介。

 なんとなく天井に向けて、拳を握った。

 どっちになるんだろうな。

 この拳が、握った手が。お前を咎めるために顔面をぶち抜くことになるのか。

 挨拶代わりに拳をぶつけ合うためになるのか。


「どちらにせよ」


 僕は本当に、何も知らないんだ。

 乃安。一つ誤解しているよ。僕は何もかも忘れて普通に過ごせるほど、器用じゃないんだ。楽になれる選択肢ではないんだ。

 ここで何もしなかったら僕は後悔する。絶対に。ふとした時、思い出して。後悔する。

 だからこれは、誰のためでも無いんだ。京介のためですらない。結局のところ、突き詰めれば自分のためなんだ。僕が後悔しないためなんだ。


「ありがとう、乃安」


 気を使い過ぎる後輩。君は僕よりもずっと凄い。僕は酷い奴だ。

 君の立派な気づかい、配慮よりも、自分の余計なお世話未満のありがた迷惑よりも迷惑ななにかを選んだんだ。


「ごめん」

「私も、変わらないですよ。きっと、先輩と」


 そっと目を開けた乃安。笑顔の仮面も無く、どこか疲れた表情で、手を伸ばしてくる。頬に添えられた手は、冷たくて、でも、もちもちと柔らかい。


「私も先輩も、守りたい何かに対して、必死なだけなんですよ。今回は、それが擦れ違っただけなんですよ。だから、悪くないんです。私も、先輩も」

「……うん」

「信じますよ、先輩」

「うん」

「一人にしないって言葉、信じます」

「ありがとう、乃安」


 小さな微笑み。控えめな。でも、それは確かに、笑顔だとわかった。心が理解した。


「誰かに思われるって、結構、良いものですね。温かいです」

「うん」

 





 「なんか、もっと欲しくなります。もっと強く、思われる感情」


 自分でも、思ったよりも小さく呟いていたらしい。私の、気がついたら生まれていた願望。思ったよりも、欲張りだ。私。今はそっと、仕舞いこむ。

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