第76話 メイドと付き合い始めて。
陽菜が彼女になった。
一言で表せばそうなる。
九重君と殴り合って、一つの答えを掴んだ次の日。
昨日は気がついたら、乃安と夏樹がいなくて、陽菜と二人で帰った。帰って来た僕たちを、乃安はニヤニヤと見てきたのが少し気になった。人の感情に敏感な彼女だ。気づくものがあったのかもしれない。
そんな乃安と、僕はちゃんと話さないといけないことがある。
「乃安、その、ありがとう。あの時」
「気にしないでくださいよ。と、言いたいですが。先輩、そうは見えないと思いますが、私、先輩のこと、結構大事に思っているのですよ」
人差し指を一つ立てて、かすかに微笑んでそう言う。
「なんで?」
「理由なんていります? まぁ、きっかけくらいなら、先輩が誰かのために一生懸命になれる人だと知ったからですかね。先輩とあの派出所出会った後の先輩の動向もちゃんと追っていたんですよ、私」
それで十分でしょうと、乃安はウインクを一つ残してキッチンに入った。
今日は日曜日だ。一日の流れがゆっくりで。
「先輩、私、少し買い出しに行ってきます。調味料を少し。一時間ほどで戻ります」
「あ、あぁ。うん。ん? 一時間?」
返事を言い終える前に、乃安は家を出て行った。何か緊急なのだろうか、と思っていたが、調味料なら陽菜がこの前……。
「相馬君」
「ん?」
玄関で何事かと立ち尽くしていると、陽菜が畳み終えた洗濯物を抱えて降りてくる。
「何かあったのですか?」
「いや、乃安が、買い出し行くって。一時間くらいいないって」
「買い出し、ですか? 一時間?」
陽菜が不思議そうに首を傾げる。やはり僕と同じところに疑問を抱いたらしい。
「何を買って来ると言うのでしょう。構いませんけど。それよりも」
陽菜の無感情な瞳に、少しの熱が宿る。
「少し、良いですか?」
「ん? うん」
どうしてか隣に立った陽菜は、そっと腕を絡めてくる。
「……少しだけ、恋人みたいな事、したいです」
「……うん」
なるほど、陽菜の仕事にもうすぐ一息つくからと。というか、何も言わずとも一日で看破するとは、凄い後輩だ。
「みたいといっても、付き合って、ますけど」
「そう、だな」
そっと顔を伏せて、陽菜はクイっとリビングの方に腕を引く。ソファーに並んで座ると、そのままさらに身体を寄せてくる。
「少し、このままでも?」
「うん。僕も、良いか?」
「変なこと聞きますね」
「確かに」
陽菜が近づいて僕が動かなければ、距離が無くなるのは、当たり前で。
「落ち着く」
「はい。私もです」
そんな当たり前が温かい。
人を好きになることについて考えた。
素敵なことだ。怖いことでもある。でも今、間違いなく、何よりも幸せな気分に、浸っている。怖いくらいの幸福感に、浸っている。
失ってしまった時、僕は立ち上がれるのだろうか。
「相馬君」
「ん?」
「どこを見ているのですか?」
「どこって」
「今を、楽しんでください」
「……いま、か」
「はい。今です。今を生き抜けない人に、明日は生きられませんから。相馬君は明日になったら明後日のことを考えるのです?」
……そうだな。
「うん。今、だな」
そして僕は、陽菜の方に少しだけ寄りかかった。少しだけ。少し、だけ。陽菜の方に寄りかかる。
どれくらい近づいて良いのか、どれくらい、どれくらいなら、良いのだろうか。
……。ん。
「ただいま帰りました。陽菜先輩……ふふっ」
私が帰って来たら、二人がソファーに座っていた。相馬先輩は、陽菜先輩の膝に頭を預けて眠っている。所謂膝枕だ。そんな陽菜先輩も、ソファーに背中を預けて目を閉じている。眠るその直前まで、先輩の頭を撫でていたようで。手は先輩の頭の上。
「少しゆっくりしてもらいましょうか」
出来た後輩な私は、二人の安らかなる時間を守るのです。
この穏やかな時間をスマホの画面で切り取って、夏樹さんと共有したい衝動に駆られるけど、それは、陽菜先輩が来ている服装が許さない。だから、独り占め。二人の関係の名前が変わっても私は私。
別に居づらくない。この二人の間に流れる感情は、優しい味がするから。
だから私は私のこの平和な世界を守るために働く。それだけ。それが朝比奈乃安の処世術。
でも、思う。
あれだけ強く思われたら。あれだけ強い感情が自分に向けられたら。
どんな味がするのだろうかと。
月曜日。こちらとしてはさっさと小物づくりを済ませたいところ。なのだが。
「予定が一日しか合いませんと」
「向こうも準備が佳境みたいだからね」
結構マメな人という印象だから、少し意外だ。陽菜と乃安は鞄づくりに掛かり切り。如何に優秀な二人と言えど、物が物だ。時間はどうしてもかかる。魔法を使えるわけではない。
まぁ一緒に作る日も名目は交流会。こっちで殆ど作り上げても良いだろう。
「というわけでガンバローっ!」
夏樹が右手を上げて音頭を取る。
「莉々が巻き込まれるのは正直意味が分からないけど」
「君島さん。頼む」
「日暮相馬に頼まれても嬉しくないけど、乃安ちゃんの頼みだから来ただけ。やらないとは言ってない。ただ、本番の日の接客は金を積まれても嫌」
そう言いながら、キーホルダーを一つ完成させてる。意外に手先が器用だ。それは夏樹も同様。
僕の手先の器用さ加減で言えば、簡単なプラモデルを説明書通りに組み上げることができる程度。だ。
目の前の二人ほど作業効率が良いわけではない。
陽菜と付き合い始めてからって、全能力が跳ね上がる、なんて都合の良いことが起きるわけではない。
僕の見える世界が変わっても、世界そのものが変わるわけじゃないんだ。
「……少し、マシな顔になったね」
動かす手を止めることなく、君島さんはそう言った。
「そうかな?」
「ムカつくくらい」
「そっか」
「莉々は。好き嫌いで物を語るけど、嫌いじゃない。ムカつくけど」
「……そっか」
それから、下校時間までせっせと三人で手を動かし続けた。
予定数が見えてきた辺りで今日は終わり。あとは向こうの学校と一緒に作れば良い。
「お疲れ様です。鞄の方は明後日には予定数量完成するかと」
「早いね。流石」
「ありがとうございます」
夏樹の言葉にペコリと頭を小さく下げて答える。
「Tシャツの方も見本が届きましたし。順調ですね」
「うん」
順調なんて言っていると、思わぬところで躓くことになるが。
どうしてだろう。大丈夫だ。胸を張って、そう言えるんだ。
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