第38話 メイドいない慣れない朝。

 静かな朝だ。

 家に、自分以外誰もいない。

 でも、陽菜が派出所に帰った時のような焦燥感は無い。

 ただ、陽菜がいないことに、慣れていないだけだ。いや、違うな。陽菜がいることが当たり前になってしまったのか。


「もしかしたら、これが普通になるかもしれなかったのに」


 陽菜は間違いなく、駄目人間製造機だ。

 なんて、馬鹿なことを考えながら日課をこなし、陽菜が作り置きしてくれた朝食をしっかりと手を合わせて食べて、家を出る。

 二人だと心地の良い静かな朝も、一人だとどこか物足りない。

 朝の人混みも、同じ制服の奴らの中に紛れて歩く時も。

 常に横か後ろにいてくれた。それだけで、僕にとってはとても、頼もしい? 違うな……なんだろう。

 でも間違いないのは。支えてもらっていたこと。

 僕は、陽菜を、支えることが、できるのだろうか。


「ったく」


 今週は頑張らなきゃいけない週なのに。

 後ろ向きになるな。日暮相馬。


「僕は、強くなるんだ」


 声に出して、自分の目標を確かめた。

 朝の冷えた風に、その声は消えていく。それでも、僕の心は、少しだけ熱くなった。





「早すぎた」


 阿保か僕は。教室にはまだ誰もいない。

 無人の教室、荷物を置いて、ため息。いつもより足が前に前にと動いていた。

 一人だと、歩くの早いのかな。


「そうですね。早すぎです」

「陽菜?」

「はい。おはようございます。相馬君」


 振り向くと、少しだけ息を切らして、ほんのりと汗をかいている陽菜が立っていた。


「早いよ陽菜ちゃん」

「そうですよ」

「すいません」


 駅で僕の姿を見つけて、頑張って追いかけてきた、といったところか。

 みんな暑いからと荷物を教室に置いて廊下で過ごすことにした。


「どうぞ、汗ふきシートです」

「ありがとう」


 夏とは違って、涼しいから、身体を冷ますのには苦労しない。

 あぁ、ようやく、戻って来た。なんて思った。

 空気が、いつもの匂い、味を取り戻した。


「寂しかった?」

「おう」

「正直でよろしい」


 クスクスと布良さんは笑う。

 朝練が終わったのか、野球部が疲れた様子で歩いているのが窓から見えた。

 ここからまた、今度は放課後に練習するのだろう、授業中寝てしまうのは、ある意味では仕方のないことなんかもしれない。 


「そういえば相馬君、昼食持ってきました?」

「あっ、忘れた」

「おぉ、さすが陽菜ちゃん、予感的中だね」

「相馬君の事は何でもお見通しです」


 どうやら陽菜はそれを見越して作って来たみたいだ。助かった。


「ありがとう」

「どういたしまして。相馬君は、自分のことになると、とても雑になりますね」

「……気をつけるよ」


 たった一晩離れていただけなのに、陽菜のいつもの無表情がとても愛おしい。


「どうかしましたか?」

「どうかしちゃっているよ」

「そうですか」


 廊下での雑談も、体が良い感じに冷えてきた辺りで切り上げ、そのころには教室の中にも活気が出てきている。



 「おう」

「京介、お疲れ」


 エナメル鞄を肩に担ぎ、シャワーを浴びてきたのか汗臭い雰囲気は無い。


「本当にお疲れだぜ。部長の思い付きで朝からノックだぜ。しかも百球きっちりやるし。授業寝るから後でノート見せてくれ」

「ではこの刺激強めのラムネを進呈しよう」

「そりゃどうも、どうせ効かないけど」


 それでも受け取りはするのか。


「みんな来ているな、席に着け!連絡をするぞー」


 朝から賑やかに先生が入って来た所で話を切り上げ席に着く。

 布良さんの号令と共に今日がスタートした。




 放課後、一部の暇な生徒で、接客練習を行うことになった。


「陽菜ちゃん、笑おう。ほら笑って」

「無理ですね。私の作り笑いの悲惨さはちゃんと教えたはずですよ」


 布良さんが、根気強く、陽菜に営業スマイルを教え込もうとしている。

 一般人が本物のメイドに営業スマイルを教えようとしているあべこべの姿。何だろう、面白い。


「夏樹の姉御の言う通りですよ。無表情で接客されたら怖いですよ」

「では、私をシフトから外しましょう」

「だーめ。さぁ、まずは口角を上げよう」


 でもまぁ、陽菜がクラスメイトに囲まれて笑顔の練習をしている、微笑ましいな。


「どうしても目が笑わないね」

「目だけ無感情ってとっても不気味。顔は可愛いのに」


 散々な言われようである。

 その日の夜。余程気にしたのか洗面台の鏡の前で陽菜が作り笑いの練習を始める。


「私、相馬君に笑顔が可愛いと言われた覚えがあるのですが」

「その不気味な笑みじゃなくて、自然な笑顔だよ」

「なるほど、では相馬君、私が笑顔になりそうなこと言ってみてください」

「えっ……」


 どうしよう、突然言われても思いつかない。そんな期待の目で見られても困る。


「えっと……陽菜」

「はい」

「うーん」

「相馬君?」

「ごめん、思いつかない」


 陽菜の視線に耐えきれず目を逸らす。謎の罪悪感が僕を襲った。

 自然に笑顔になること。陽菜の不意打ちの笑顔を引き出す方法。

 いや、浮かばないな。どうしたらいいんだ。


「そんな、いえ、私も結構無茶なこと言ったなと思いますし、謝るようなことでは無いですよ」

「ただ、陽菜の笑顔が可愛いのは本当だし。不意に向けられると心臓うるさくなるし。陽菜は素敵な女の子だよ、本当」


 驚いたように、一瞬だけぱちくりと見開かれる目。

 それがゆっくりと、優し気に細められ、唇が、緩やかに弧を描く。頬の力は良い感じに抜け、首が少しだけ傾げられる。


「……それだよ。陽菜」

「? どれですか?」

「今の顔」


 きょとんと首を傾げながら、鏡に向き直ると、そこにあるのはいつもの陽菜。


「……本当、難儀な顔です」

「綺麗だけどな」

「宝の持ち腐れって奴ですかね」

「嫌だよ。陽菜は全部を含めて、陽菜なんだから」


 また、陽菜の笑顔が咲く。


「……安売りしなくて良いよ。陽菜の笑顔は」

「? と、言いますと」

「……なるべく、独り占めしたい。……って何を言っているんだ僕は」


 まだ付き合っていない。なのに。あー。


「うん、これは眠いんだな。そうだな。おやすみ」

「は、はい。おやすみなさいませ」


 独占欲が強いのは良くないんだぞ。日暮相馬。くそっ。

 ほとんど駆け上がるように階段を昇り、部屋に入ってそのままベッドに飛び込んだ。

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