雨夜の月

 雨雲の隙間に丸い月が見えた気がして、足を止めた。

 被っていたお面をずらして空を仰げば、大きな雨粒が頬を叩いた。

「ちょっと! じん!」

 前を走っている幼なじみに呼ばれて、視線を戻した。

「早くしてよ!」

「ああ」

 お面を被り直して、慣れない草履ぞうり泥濘ぬかるんでいる道を蹴った。

 前を走る彼女の浴衣の裾には、泥が跳ねている。狭い視界が煩わしいが、このお面を外すわけにはいかない。

 祭りの日は、お面を被っていないといけない。でないと、彼岸に連れていかれてしまうよ。

 誰かが、そう言っていたから。



 突然降り出した雨を避けるため、屋台の並ぶ参道を外れ、偶然見つけた建物の屋根の下で立ち止まった。

 本殿から少し離れたところにあるせいか、灯りのない木造建築は、幽玄な雰囲気を漂わせていた。

 運良く雨には殆ど濡れていなかったが、雨脚は強くなっていく。仕方ない、ここで少し休んでいくことにしよう。

 視界にかかるお面を外し、ぼーっと空を見上げた。

 空は赤く染まっており、雨雲のせいか灰色がかっている。どこか幻想的な空模様に、丸い月が輝いている。

 雨は、すぐに止むだろうか。花火は、打ち上げられるだろうか。

「こんばんは」

 肩が大きく跳ねた。恐る恐る振り返ると、背丈が同じくらいの子どもが立っていた。緑色の浴衣にヒーローのお面を被っているところを見ると、彼も祭りの最中に雨に降られたのだろう。

「君も雨宿り?」

「うん」

「そう。お面は? 持ってないの?」

「あるけど」

「それなら、被っていた方がいい」

 隣に置いてあったお面を手にとった彼は、俺の顔にそれを被せた。

「祭りの日は、お面を被っていないといけない。でないと、彼岸ひがんに連れていかれてしまうよ」

「彼岸?」

「ああ。人を食べる怖い奴らがいるところさ」

 隣に腰掛けた彼は、棒に刺さった苺飴を差し出した。

「よかったら、一ついかが?」

「いいの?」

「もちろん」

 俺たちは二人並んで飴を食べながら、雨が止むのを待っていった。

 雨はどんどん強くなり、大きな雷もなりだした。風も強くなってきたので、建物の中に逃げ込んだ。

 中はとても暗くて、吹き荒れる嵐の音は怖かったけれど、彼と話しているうちに日差しが差し込んできていた。

「鬼は行ったみたいだね」

「鬼?」

「そう。さっきの嵐は、鬼が人を喰うために起こしてたのさ」

「まさか」

「信じるかどうかは、君次第だよ」

 肩をすくめた彼は、俺の手を引いた。泥濘んだ山道は、履き慣れない草履では歩き辛かった。

「そこを真っ直ぐ行けば、参道につく」

「君は?」

「友達がいるんだ」

「そっか」

「また会おう、仁」

 手を振って俺たちは別れた。



「もー、仁が遅いから濡れちゃったじゃん」

 人気の無い建物の軒下に駆け込んだ幼なじみは、唇を尖らせながら乾いたタオルで髪を拭いている。

「悪い」

「いいから、あんたも拭かないと」

 手が伸ばされてきて、濡れた肩をなぞっていく。そのタオルを受け取ろうと手を動かすが、狭い視界では上手くいかない。

 とりあえずお面を外そうと手をかけたら、その腕を掴まれた。

「外しちゃだめだよ。まだお祭りの最中なんだから」

「だけど」

「中、入れそうだよ。仁は先に行っててよ」

六花ろっかは?」

「足拭いたら行くから!」

 背中を押されるままに、建物の中に入った。中は暗かった。

 段々と雨風が強くなってきたが、彼女はなかなか入ってこない。

 大丈夫だろうか。

 ガタガタと揺れる建物の角で息を殺していたら、扉が勢い良く開かれた。眩しい日差しが差し込んでくる。

「仁! すごい綺麗な夕焼けだよ」

 彼女に引かれるまま外へでると、先程までの夕立は嘘のように晴れ渡っていた。

「早くお祭り行こう!」

 そう言って俺の手を引く彼女のお面は、少し汚れていた。




「こんなところで、何をしている」

 赤い顔に高い鼻の男が、彼の目の前に舞い降りてきた。

 彼は視線を向けることなく、手に持つお面を弄んでいる。

「別に」

「人の子の臭いがするぞ」

「自慢の鼻も、使い物にならんな」

 風が吹き荒れ、枝のぶつかる音がする。二人のいる軒下にも、大きな雨粒が吹き込んできた。

 地面を叩き付ける雨のなか、髪を振り乱した大男が近づいてきた。

「人はいるか?」

 腹に響く低く恐ろしい声で、大男は彼らに問いかけた。

「いないよ」

「ならば、そこをどけ」

「ここには私たちしかいない。余所へ行け」

 低く唸った大男は、その太い腕を振り下ろした。同時に雷が落ちる。

 彼の手からお面が落ちた。

「人の臭いがする」

「それは、私がべた人の臭いだろう」

 鼻を近づかせて彼の臭いを嗅ぎ回った大男は、大きく吠えた。また雷が落ち、風は渦を巻き、雨が彼を打ち付ける。

「去れ、鬼め」

 唸り声をあげながら、ゆっくりと山の奥へと消えていった。

 雨脚はだんだんと弱くなり、厚い雲も去っていく。

「たいした女優だな、天邪鬼」

「嘘をつくことなんて、いつものことだろう」

 雲の切れ間から、綺麗な茜色が現れた。

「いつまで人の振りなんてする気だ?」

「お前も去れ、天狗」

「変な奴だな」

 彼がお面を被り直したときには、天狗の姿はなくなっていた。

 腰をあげた六花は、扉を勢い良く開けた。

「仁! すごい綺麗な夕焼けだよ」

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