八重葎

 太陽が天頂を通り過ぎたので、庭師は休憩をとるために背筋を伸ばした。朝から屈めたままだった腰が、ポキポキと音を立てた。

「おじさーん!」

 色とりどりの花に囲まれた小道を、一人の子どもが駆けてくる。大きく手を振りながら庭師の所へ辿り着いた彼は、肩を弾ませている。

「お話ししましょう」

 走ったせいか、高い気温のせいか、少年の頬は火照っている。彼を日陰のベンチに招き入れた庭師は、水筒から冷たいお茶を注いで渡した。

「お勉強はいいんですか?」

「今日の分は終わったよ」

「何を習ったんですか?」

「百人一首を覚えたんだ」

 少年の手元にあったグラスが空になっていたので、庭師はもう一杯注いでやった。

「どんな歌を習ったんですか?」

「『八重葎 しげれる宿の さびしきに 人こそ見えね 秋は来にけり』」

「恵慶法師ですね」

「知ってるの?」

「ええ」

 自分の分の茶を注いだ庭師は、ふと遠くを見た。

 この広い庭には池もあり、この時期には睡蓮が咲き誇っている。その中心には、朝顔のつたが這う古びた離れが建っている。

「坊ちゃん、離れの話は聞いたことがありますか?」

「大伯父様が絶対に近づいてはいけない、って」

「ええ、その通りです。あそこには、ある方が眠っていらっしゃいます」

「だれ?」

「あなたにそっくりな、とても美しい方ですよ」

 少年は、目を輝かせた。

「おじさんは、あの離れのことを知ってるの?」

「はい」

「教えて!」

 無邪気な瞳に、庭師は少したじろいだ。

「私からきいたことを、秘密にできますか?」

「うん!」

 大きく頷いた少年に、庭師は笑みをこぼす。好奇心に溢れた瞳は、かつて離れで過ごしていた少女と良く似ていた。

「あれは、私がまだ坊ちゃんくらいの年の頃でした。離れには一人の美しい方が住んでいて、毎日決まった時間に彼女を尋ねてくる殿方がおりました」

 遠い懐かしい日々に想いを馳せながら、庭師は二人の物語を語った。少年は終始、輝いた目でその昔話に聞き入った。

 かつて恋人たちの逢瀬に使われていたその離れには、今は誰も近づかない。つたに囲まれたその扉の先には、一人の少女が今も眠っているから。

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