第6話
異臭の正体はどうやら冷蔵庫の裏、部屋の奥にあるようだ。そこだけは綺麗にされている——というよりも、何も置かないようにされている。腰の高さほどの柵で空間が仕切られており、都古は目を細めた。部屋の隅で、赤毛の女がデスクに向き合って何かを書いている。
「マダー、換気してって言ったつもりだったんだけれど」
アカーシャはうんざりした声で同じ研究グループの研究員の名前を呼んだ。けれども、返事はない。二人は顔を見合わせると、タイミング揃ってため息を吐いた。
「マダー、今度はどんな小説を書いてるんだ?」
都古はそう言いながら彼女の脇にあった原稿の束を取り上げた。マダーと呼ばれた女はさっと顔を上げ、都古の顔を見るなり、驚いて、すぐさまに装着していたイヤホンを取り外した。イヤホンからは、密閉型にも関わらず鼓膜が破れそうなほど大音量のアイドル・ミュージックが流れている。
「ミヤコぉ! 勝手に読むなぁ!」
マダーは立ち上がると都古の手から原稿を奪い取った。
「それに、あたしの名前はマデルレリ、ちゃんとした名前で呼べ!」
「マダー、君の名前、僕たちからするとすっごい発音が難しいんだよ」
「アカーシャはいいよね、発音が全世界的に簡単で」
「全世界的に簡単かなぁ。ああ、いや、そんなことはどうでもよくて——そう言ったとき、マダーはどうでもよくない、と反論した——マダー、ハクサンの匂いがキツいんだから、しっかりと換気してくれって頼んだんだけれど」
ハクサン? と疑問に思ったとき、ソレと目が合った都古は思わず我が目を疑った。ヤギが咀嚼をしながら見つめている。その異様な光景に彼は言葉を失っていた。
「なんでヤギがいるんだよ」と都古はおそるおそる訊ねた。
「えへへ、彼女がウチのラボの三人目のメンバーなんだ」
マダーは少し照れた様子で立ち上がり柵の中に入るとヤギの脇を抱えて都古の前へと持ってきた。「抱っこしてみる?」と彼女はヤギを前に差し出したが、都古はそれを丁重に断った。ヤギはとろんとした目つきで都古を見ている。その目つきは彼にとってひどく不気味に見えた。
「気をつけてね、顔の前に手があると噛むからさ——じゃなくて、換気! しっかりしてよマダー。君が責任持って飼育するって言ってたじゃないか!」
「研究に必要って言ったのはアカーシャでしょ」
話に聞くところによると、アカーシャは今、家畜の輸送に関する研究をしているようで——これは都古には到底信じられない話だったが——そのために手頃な動物を飼育する必要があると判断したようだった。よりにもよってどうしてヤギなんか、と質問すると、せっかく飼うならヤギがいい、とマダーが提案したという。大方、ボツ原稿でも食べてもらおうと考えていたのだろう。彼女の机の横のシュレッダーはいつもそれでいっぱいだったからだ。化学薬品の使われた紙がヤギにとって不調の原因だと知ったときから、マダーはすこしづつ飼育を欠かすようになっていた。
「お前が悪い」と都古はマダーに一言たしなめた。
彼女は一言で言えばズボラな、典型的な研究者だった。女性だというのに身だしなみは杜撰で、現実に髪にはひどい寝癖が出来ている。好ましい点はシャワーにはたっぷり一時間入るところ(ただし、アカーシャからこれを、節水の観点から不満に思っている)と、自分の研究の腕に強い自信を持っているところだった。「……うぅ、ごめんなさい」それから、素直ではないけれど、謝れること。
「それにしても、ミヤコ、いったい何の用?」
「何も聞いてないのか?」
「彼女には何も話してないよ。だって、彼女は研究室で寝泊まりしてるから」
「何の話?」とマダーは前髪をそっと掻き上げながら質問した。
「明日か明後日、隕石が落ちるからみんなでこのヴィレッジから抜け出そうって話」
「冗談やめてよ。ってか、隕石が落ちてきたらあたし置いてかれちゃうの?」
「マダーは極地工学の星だからな」
「それって隕石と掛けてるの? 上手なジョーク。でもあたし、まだ自分の研究に骨埋める覚悟はできてないかな。まだ二十二だし。それで? 本当に何の用事?」
「隕石は来ないが、ウェザーレポートによるとブリザードが来るらしい。それが原因で、しばらく大学はしばらく閉鎖だとさ」
「だからその前に、いくつか荷物をここから自宅へ持ち出したくてさ、ミヤコに手伝ってもらおうと思ってるんだ。彼なら車の運転ができるしね」
はぁん、とマダーは気の抜けた返事しながら立ち上がり、入り口のそばにある冷蔵庫からミルクを取り出してコップになみなみ注いだ。
「それって、私になにか手伝ってほしいことがあったりする?」
「結構。実際の話、君が今かなり忙しいことは、よく知ってるからさ。そもそも忙しくなかったとしても、君は実験器具を持ち運べないじゃないか。ひとつ二十五キロもするんだぜ」
「二十五キロってガキんちょの重さと同じじゃない。あたし、そんなに非力じゃないけど」
そう言って彼女は細腕を折り曲げて、貧相な筋肉を誇示した。それはとても頼りなくみえる。都古とアカーシャの二人は顔を合わせて、やれやれとでも言うかのように笑って、それから作業に取り掛かる。「ちょっと? 今何で笑ったのよ」とマダーは顔をしかめた。
都古からすれば、アカーシャの実験道具はどれも用途すら不明なものだった。知識を持たない彼にとってそれらは、金属製の四角い箱以上のものでもなんでもない。メーターのようなものが画面についているから、なにやら計器のようなものだとは理解出来るが、いったい何を測定するのか、全く予想がつかない。
ただ、彼の発明品については、いくつか興味を惹くようなものがあった。というのも彼の研究は非常にシンプルな「極地でも運用可能なドローンの作成」をテーマとして設定していたからだ。蜂の巣のような構造を持ったドローン、小型のものを連結させて使用するものなど。計器はもちろん、これらのドローンも精密な機械だから気をつけて運ぶようにと、都古はアカーシャから釘を刺される。ひとつひとつケースに格納し、車に積み込む。
「しかし、恐ろしい数だな」
「そうかも。大小合わせて五十はある計算になる」
一通り運び終わった彼らは、ハブのなかにあるカフェテリアで珈琲を飲みながら時間をつぶしていた。大学の研究材料を持ち出すときには申請と検査が必要だからだ。前にもそれを行っている人間がおり、かつアカーシャは持ち出す数が多いので、一、二時間ほどかかる計算になっていた。
「あの数のドローンを用意してなんか意味があるのか?」
「うーん、ミヤコにはちょっと感覚的に理解しづらいかもしれないけれど——だってほら、君はすこし完璧主義者の気があるから——僕の研究は完璧な一を作る必要がないんだよ」
「ほぅ、面白そうな話だな、それはどういうことだ?」
「とりあえずアイデアを形にすることが優先されるんだ。ああいう機械はアイデアさえあればブラッシュアップは企業——正確にはお雇いのエンジニアかな——がやってくれる。もし彼らがやってくれなくたって、後世の誰かの研究余地となる。完璧な一を作るよりも、中途半端な〇・五をいっぱい作る方が、時にはよかったりするんだ」
「じゃあ、アカーシャが大学との契約を終えたら」
「ああ、こいつらを適当な企業に売りつけようと考えてるんだ」
ちゃっかりしているな、と都古は笑いながら感心した。それと同時に、後ろめたい気持ちもあった。自分の研究は実験開始から大した進展もなければ、目立ったこともない。言ってしまえば、うだつの上がらない状態だった。我ながら、どうしてこのような——誤解を恐れず言ってしまえば、未来もなく、退屈で、得るものの少ない研究を選んだのだろうか、と不思議に思う。していることはせいぜい、計器の数字からグラフを作成し、そのグラフから考察する程度。それこそが研究だと、誰かから叱咤されそうな思想だとはわかっているが、都古はディスプレイに向き合う自分を時たまに惨めだと感じていた。
珈琲を飲み干すと、喉に苦味が残り、都古は気持ち悪さを感じた。紙コップを握りつぶすと、彼はおもむろに立ち上がり、それをゴミ箱に投げ入れる。嫉妬しているといえば、そうかもしれない、と都古は自分のことを確かめた。けれども、きっとそれ以上に、自分の無力感が気に食わないのだろうとも考えた。席に戻った都古の顔を見た
「そんな顔しないでよ。ミヤコが自分の研究テーマに不満持ってるのはよくわかってるつもりだけれど、世の中に無駄な研究なんてきっとないよ。
古典研究なんか、今では百人以上が取り組んでいるけれど、五十年前は一人か二人しか、その分野に研究者がいなかった、誰もが、非科学的だ、って言って嘲笑っていたんだ。古語の習得と解読なんかに時間をかけるよりは、実学的な研究に投資した方がいいってね。でも今では——ミヤコだって知ってるだろ、古代に生きた人間は自然災害に関する公文書、報告は、できる限り克明かつ普遍的を心がけていたことに気づいたら、紙束が黄金の先行研究資料に化けたんだ」
「ああ、そのエピソードは知ってるよ。有名だからな」
でも、それとこれは別だろ、と言いかけて口をつぐんだ。アカーシャが自分を慰めようとしていることを、無下に扱いたくなかったからだ。たしかにいつか、何処かで自分の研究が報われるかもしれない、そういう可能性の期待は何度もしてきた。けれども、その期待はどこか風船のように巨大で空虚なものだった。頑張れば、いつか報われるかもしれない、そんな期待を胸に抱けば、たしかに自分ももう少し頑張ろうという気持ちにはなれるが、それと同時に、もしそれでまったく報われることがなかったら、という暗い未来に対する不安が都古に襲いかかる。彼はカナリア行きを決め、人生を順調に過ごす先輩や、アカーシャのことに対して強い嫉妬心を抱いていることに気付き、深いため息をついた。
「悪い、今は暗い話をするべきじゃないな。なぁアカーシャ、マダーを誘って、なんか昼食でも食いに行こうぜ、中心街のレストランかなんかでさ」
「ああ、わかったよ。でも彼女、来てくれるかな」
「なにか、特別な事情でもあるのか?」
「いやなに、さっきも話したけれど、マダーは最近根を詰めがちなんだ」
「なぜ?」
「それは、ミヤコに関係してるのかな……」
「俺?」
都古が訊ね返すと、アカーシャはバツの悪いような顔をして「忘れてくれ」と一言突き放すように言った。それは都古に関係してはいるが、あくまで彼女の話だし、そもそも彼女を誘ってみなければ、可否もないからだ、と。アカーシャの意見にはある程度の納得を覚えると同時に、彼はなんとも言えないひっかかりを感じた。彼は比較的温厚かつ曖昧な性格だから、明確に突き放された、という事実はアカーシャらしくない。単刀直入に言えば、マダーが根を詰める理由は自分の消えた(とされている)記憶と何か関わりがあるのではないか、と疑い始めた。自分の脳にある大きな空白が、マダーの態度を変えているのではないか、とアカーシャに明かしてみると、彼は苦笑いを浮かべる。
「ミヤコ、また失くした記憶の話? そのジョークが面白いのは一回きりだよ」
「話をはぐらかさないでくれアカーシャ、真面目な話なんだ」
「ハハ、とりあえず僕はお腹空いたよ。マダーを誘いに行こう」
「おい」
アカーシャはそれ以降取り合うことなく、二人は研究室へと戻った。マダーは部屋の隅でヤギを撫でている。とてもリラックスした表情で、まるで立ったまま眠っているような様子だった。ヒーターがごうごうと音を立てている。
「ハクサン……お前ぇ、よく見ると可愛いなぁ。うりうり」
「ハクサン?」と都古が質問すると、ハクサンというのが飼っているヤギの名前で、マダーの好きな花の名前から由来しているようだった。花の形がこのヤギのあごひげに似ているらしい。気持ちがいいのか、五歳児の女の子のような声で彼女——というのも、ハクサンはメスだった——は鳴いた。その様子に癒されているのか、マダーはほっぺたを緩ませている。以外と、獣特有の嫌な臭いはしなかった。人間を含めた動物の糞というのは食べているものに、大きく影響されている。ハクサンの食べている餌は草ではなく、室内飼育用の餌だから、臭いはせず、糞もペレット状で比較的始末が容易にできるらしい。家畜は地球の環境変化にともなって、人間都合による進化を遂げた。正しく記せば生存戦略として人間に寄り添う(それを媚びると呼ぶ研究者もいる)ことを選んだ動物が生き残ったともいっていい。
ハクソンを見ていると、都古は羊のことを思い出した。ちょうど十年ほど前のこと、都古は幸運にも地球最後の羊を看取ったのだった。たまたま彼の実家の近くで、羊のオーナーと彼の父が友人関係だったことが起因したのだ。僻地までわざわざ足を運んだ記者と小銭稼ぎのためにストリーマーが彼の家の周りを取り囲んでいるとても異様な光景が広がっていた。そういった状況のせいかどうかはわからないが、羊が一言、べーと鳴いてから死んだ時、都古は何も思わなかった。悲しい気持ちや喪失感も、かといって荘厳さもなく。ただ、死んだ羊が目の前にある、という事象だけが、まるでポツリと浮いているようだった。自分は今、地球に百万匹、羊が居た時と同じ反応をするのかもしれないと。都古は、そんなことを考えながらオーナーと自分の父親の間に挟まれるように立っていた。羊は室内飼育用に作られた人工の餌をなかなか食べないのが原因だった。
「マダー、三人で昼食を食いに行かないか?」
「え? 奢りか!?」
「ああ、アカーシャのな」
「車貸してくれるミヤコはともかく、なんでマダーにまで」
「マダーのことだからどうせ、アカーシャがいないところでは孤食、小食に固食だろ」
「ミヤコには言われたくないー」とマダーは手を上げて反論するが、彼女は三人で昼食を摂ることについては賛成だと答えた。大学に隣接して小さなショッピングモールがあるから、ということで三人は一度大学を出て、そこへ向かった。
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