第5話

 いくら考えたところで、彼の悩みが晴れることはなかった。来た道を戻り、家に帰ると、リビングの椅子に座って例の亡霊が外の景色を見ていた。亡霊は都古が観測する限り必ず女性の姿で現れ、医者の着るような白衣を着て、黒髪のボブカットで、前髪は目にかかるほど長かった。「亡霊」と都古は便宜上呼んでいるが、もしかしたら都古にしか見えない実在する人間かもしれないし、幻覚かもしれなかった。


「やぁ」と彼女は手を振って彼の方を見た。

「さっさと成仏してくれ」

「記憶は見つかった?」

「探し回ってみたけれど、どこにも落ちていなかったよ。もしかしたら、交番に届いているかもしれないな。それじゃあ、おやすみ」


 都古はげんなりした顔をしてそう答えた。


「おやすみ? 君はあのコンビニエンスストアまで夜食を買いに行ったんでしょ?」

「君に見られていると食欲が失せるんだ」

「そんなに私のことが嫌い?」

「いや……どうだろう」


 都古は曖昧な返事をしながら買ってきた豆缶を取り出し、封を開けて、スープを作り始めた。寒さの厳しい、この世界ではこの豆のスープがよく好まれた。コンソメと豆缶さえあれば、十五分もかからずに料理することができる。ことことと弱火で煮立たせ、豆に味をしみこませる。最後に塩で味付けをして、彼はマグカップに注いだ。それを持って静かに彼は亡霊の隣、リビングの椅子に座り、彼女と同じように外の景色を見た。まだ夜は深い。冬至にはまだ遠いとはいえ、夜明けまではたっぷりと時間があった。ここからしっかりと眠っても、もしかしたらまだ日が昇っていない可能性があるほどに。このヴィレッジが存在している地区で、さすがに極夜を観測することはない。とはいえ、その日照時間は非常に短く。冬至になると日照時間は三時間ほどまで短くなることは、ヴィレッジに住む人間にとって広く知られていることだ。

 室内は静かで、時計の針の音が聞こえてしまうほどだった。亡霊は都古が帰ってきたときと同じように、じっと外を見ていた。


「亡霊も思案にふけるのか?」

「亡霊っていうのは、君が勝手に呼んでいるだけでしょ。もしかしたら私は考える葦なのかもしれない。もし私が考える葦だったならば、思案にふけるのは当然だよね」

「話をそらさないでくれ」

「始めに反らしたのは君でしょ。『私のことが嫌い?』って訊いたのに」


「それは」と言って、都古は言葉を紡ぐのをためらった。

 それから次の言葉が発せられるまで、すこしばかり長い沈黙を要した。都古は今の彼女に対するふさわしい言葉が見つからなかったのだ。両極に愛と憎悪が乗っている天秤に、彼の求める言葉はないように思えた。


「まぁ、今までのやり取りについて、すべて私が意地悪なんだけれどね。おそらくいまの君じゃ五億年経ったってその感情にふさわしい言葉は見つからないよ。存在はするんだろうけれど……君はそれを見つけられないんだ。それは君にとって無色透明だから」

「なんの話だ?」

「つまりね、私は私の正体を知っている。私に対する君の感情も知ってる、もちろんそれにふさわしい言葉もね。私が思案にふけるかどうかも知ってる。けれどもね、それについて君が認知することは永久ないよ。だってそれらの答えはすべて、君の失われた記憶の方にあるんだから」

「失われた記憶? ……俺は過去に生前のお前と出会ったことがあるのか?」

「『亡霊』っていうのは君が便宜上付けた呼び名でしょ。私には生前も死後もないよ。それから正確に私と君が会ったことはない。おそらくこれからも、永久に」

 都古は彼女の回りくどい、古い小説に出てくるような言い回しにいらいらし始めていた。

「なんでそうやっていつも曖昧な言葉で煙に巻くんだ」

「答えを提示しても無駄だから」

「無駄?」

「私の正体は——だけれど。ほら、君には認識できないんだ。だってそうでしょう。存在しないものは、知覚できないから。失った記憶のなかにあるものを探ろうたって、失ったものは失ったの。だから、無駄なんだよ。都古」

「おいおい、待ってくれ、お前は俺に、失われた記憶を取り戻すよう言っていたじゃないか」

「そんなことは一言だって言ってないよ。『君自身の形を探らなければいけない』って言ったの。完全な形を取り戻すのは不可能なんだよ。そうではなくて、不完全な形を認識しなきゃばいけない、そういう意味」


 彼女は都古を諭すように言った。彼には理解こそできても、納得することが難しかった。いったいどうして自分が記憶を失っているのか、つまり自分に何が起きたのか。そのヒントは目の前の亡霊にあることは明らかだというのに、当の彼女はそこにはないと言う。隠していたり、嘘をついていたりするのではないだろうか、と疑ってみようとしたが、都古はだんだん自分がバカらしくなって、やめた。まるで自分が目の前の彼女の存在を認めているような気がしたからだ。彼女は亡霊で、存在しない。彼女は妄想で、存在しない。存在しないものに耳を貸して、振り回されるほど間抜けなことはない。


「もう寝るの?」

「まだ四時だからな」

「君の生活リズム、狂ってるよ。不摂生、栄養過多、運動不足。死へまっしぐら」

「誰だっていずれ死ぬ」


 そう言うと都古はソファーに横になり目をつむった。

 なにかがふっと消えて、針の音だけが部屋に響く。


 夢を見ないまま、都古はそっと目を覚ました。窓の外はまだ暗いが、最後に見たときより、すこしばかり白んでいる、ような気がしていた。というのも、ヴィレッジで暮らす全ての住人は、時計の指す時刻を見るか、あるいはアラームなどに叩き込まれないかぎり、正確な時刻を知ることは困難だった。

 都古は眠気まなこをこすりながら上体を起こし、前髪をかきあげる。時計は八時を指していた。大学は二時間後から訪問が許される。外出の準備をするにはあまりすぎるほどの時間があった。優雅であることを心がけるべき休日よりも余裕のある、平日のはじまりだった。

 洗面台に向かい、顔を洗うと、鏡でゆっくりと自分の顔を確認していた。自分の健康を亡霊に心配なんて、と彼は自嘲した。けれども鏡の中の自分は口角があまりつり上がっていない。それを見た彼は無意識的に頬をマッサージして、作り笑いをした。我ながら、不愛想な人間だと都古は思った。


 アウターを羽織り、カウンターに置いてある車のキーを取ると、ガレージへと向かった。ほこりっぽい匂いが鼻をつく。ガレージは車を持つ人間にとって必需品だった。太陽光は——もちろん雪によって反射するものも含めて——車のボディを劣化させる。下手をすれば内装にまで深刻なダメージを与える。太陽と車は犬猿の仲と呼んでも良いかもしれない。だから、今日のような太陽の出ない日は絶好のドライブ日和だった。

 都古は自分の好むチルホップミュージックを流しながら、エンジンをかけ、寄り道はせず、真っ直ぐ大学へと向かった。彼の家から大学まで、そう時間はかからない。そもそもひとつのヴィレッジが5キロ平方メートルほどの広さしか持っていないのだ。人間の住むことが困難な半凍結の土地がいくら安く買い叩くことできるとはいえ、大学とそのスポンサーの資金程度でひとつの巨大な村を作るのは無理があった。壮大で大きな世界よりも、小さくて完璧な世界を作る方が時代にあっていたのだ。音楽もシンプルである方が好まれるように。

 空はまだ藍色をしていたが、大学の扉はしっかりと開いていた。門の前に立っていた守衛が都古の車までやってきて、窓ガラスを叩く。二メートルほどあるのではないかという大柄の男で、目の下には深い彫りが刻まれていた。


「入場許可証は?」

「ああ、これでいいよな?」


 そういって都古は財布を取り出し、守衛に大学から交付されている学生証を渡した。彼はそれを疑わしげに検分したあと、ゆっくりと、首を振って「これではダメだ」と都古にカードを返した。


「ダメ?」

「有効期限が切れている」

「ああ」都古は自分の記憶を確かめた。「たしかに、そんな連絡が来ていたような気がする。今から事務局に行って更新してきてもいいか?」

「ダメだ。大学内に入るためには入場許可証か、それに類するものの提示が必要だ」

「冗談だろ、こんなんじゃいつまで経っても堂々巡りじゃないか」


 実際の話、そのような堂々巡りは、アカーシャが門までやってきて、助け舟を出すまでの十五分ほど続くことになった。彼らは車を大学内に敷設された屋根付きの駐車場に置くと、そこからまっすぐアカーシャの研究室があるところまで歩いた。


「悪いなアカーシャ。学生証の更新を忘れていたんだ」

「君は滅多に大学に顔を出さないからだよ。たまには担当教授のところに遊びに行けばいいのに。きっと喜んでくれる」

「それはお前のところの教授が優しいからだよ、俺の場合は白い目で見られると決まっている、連絡だって好まないんだからな」


 アカーシャは愛想笑いをして、自分の研究室まで案内した。ヴィレッジ内部にある大学の研究室は、一般のそれとはかなり様相を異にしている。ヴィレッジではしばしば、人事異動に似たことが起こる。データをやりとりするよりも、実際に頭をつっつき合わせて作業をしなければならない時や、ひとつの大きなプロジェクトが立ち上がった時など。つまり、ヴィレッジの研究は分野が異なれども、横断的かつ学術的な研究が容易であり、また環境も極地圏を想定していたものだったため、研究施設や道具、レポートを持って別のヴィレッジへ行かなければいけないことがあるのだ。

 ヴィレッジの研究施設はそんな要望に応えるため、非常に「流動的に」造られていた。まるで子供の積み上げた積み木のような、奇妙でいびつな建物を見る。これが研究棟だった。研究棟は、ハブと呼ばれる建物の骨子の部分に、耐冷コンテナと同じ造りで作られた研究室が、突き刺さっている。このコンテナのような研究室はハブから着脱可能で、そのままトランスポーターによって陸路と海路によってヴィレッジのほとんどへと研究室をそのまま運ぶことができる。都古の所属する大学は特別高名というわけではないため、ハブの空きが目立った。ただ、世界人口が減少するきざしを見せている現代、それは仕方のないことなのかもしれない。ヴィレッジの原型となるプロジェクトからおよそ百年前、世界で最初の地球寒冷化対策会議から正確に百七十三年前のことだ。それまで長い試験時間のなかで、たったひとつの問題に対する答えを用意する目処が立っていない。利権争いをしているうちに人口減少が始まり、結果として全世界的に競争力が落ちたことに起因しているのではないか、と主張する人間もいれば、実は裏で手を引く組織が……と囁く人もいる。


「なぁ、アカーシャ。このハブ、就職して使われていない研究室もくっついていないか」

「実は、そう」


 二人は藍色の空の下に高く伸びるハブを見た。研究室の中には、とうに始業時間だというのに、部屋の明かりが灯されていない部屋がいくつかある。


「たぶん、枯葉も山の賑わいってやつじゃないかな」

「それを言うなら枯れ木も山の賑わいだろ。っていうか、去った人のことを枯葉って呼ぶのはないだろう」

「悪いけど、ミヤコ。それを言ったのは僕じゃなくて学長だからね」

「ハハ……世も末だ」

「ちょっとでも見かけをよくしないとスポンサーもいい顔してくれないからさ、仕方ないといえば仕方ないように僕は思っちゃうな」


 ヴィレッジは慈善団体でなければ、財閥グループでもない。大学運営をするならば、どうしてもスポンサーの顔色を伺う必要がある。しかし、いくらヴィレッジの今後を憂いたところで都古にはどうすることもできなかった。そんな枯葉のついた古樹の中へと二人は入っていく。ハブの中は防寒対策がしっかりしていて、アウターを着れば、かえって暑すぎるくらいだった。二人は着ていたものを脇に抱える。

 一階はラウンジになっていて、広間にはテレビが流れている。ただ、それらを見ている人間はほとんどおらず、ある研究生は輪を囲んで何かを打ち合わせ、ある学生はレポートの作成に追われているのか、コーヒーカップを横に、タブレットになにかを記入していた。それを横目に、二人はエレベーターで三階を訪れる。

 アカーシャの属す極地工学研究グループの研究室の扉を開くと、普段とは違う異常な事態に、都古は顔をしかめる。都古は過去に何度か訪れたことがあったが、扉を開けたとたん異臭がするのは初めてだ。

 研究室はひどく散らかっていて足の踏み場もないほどだった。ひどいのは部屋の動線が全く確保されていないことで、デスクとデスクの間の通路の真ん中を巨大な冷蔵庫が占領している。デスクの上にもふた回り小さいものが置いてあり、わざわざ大小二つの冷蔵庫を用意する必要性について、都古は疑問に思う。

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