第4話

 都古はまだ半分寝ぼけ眼で、事情をうまく飲み込めず、ソファーからなんとなく体を起こしては、机の前へと移動した。誰からの着信であるかは見逃してしまったようで、ディスプレイには旧式の電話の形をしたピクトグラムが表示されている。このタブレットは大学から支給されたものだから、おそらく教授か、学友だろうとあたりをつけて彼は応答した。


「はい、都古です」

「ミヤコです……? なんでそんな他人行儀なんだ?」

「その声、アカーシャか?」


 少し独特な訛りの混じった声から、都古は通話相手がアカーシャだと判断した。彼は都古から一つ歳の離れた入植者だ。研究分野はまったく被るところがないが、気が合うということで、都古の数少ない友人の一人だった。


「そうだよ。元気してる? 夜遅く悪いね。本当はもっと早い時間に連絡をいれたかったんだけれど、僕はちょっと立て込んでいて」

「いいや、問題ない。連絡を入れるなら、朝よりも夜の方がいつだって都合がいい」

「そう? 次からそうするよ。

 ところで君、大学からメッセージは届いてる?」

「メッセージ? 個人的なものか?」

「いや、全体に向けて。確認してないみたいだね。その様子だとウェザーレポートも確認してなさそうだ。来週一週間は、天候の関係で大学が一部閉鎖されるから、荷物を取りに行くなら、あるいは学内で泊まり込むなら、今日か明日にしてくれって話だよ」


 そうか、と都古は返事をして、しばらく黙りこんだ。自分の研究はもう一年ほど前からほとんど完全に自宅の中で完結してしまうように環境を整備していた。そもそも、自分の専門分野は、計器のモニタリングと考察がもっぱらで、器具を使う実験はほとんどない。教授との連絡も、自宅内で済ましている。誰かと会う約束でもしない限り、大学にほとんど用事はない。だからアカーシャの連絡は、自分にそこまで関わりのあることではないと判断した。


「ミヤコ?」

「ああ、悪い。少し考え事をしていた。ただ、大学に私物はないな。必要そうなものも」

「本当? だとしたらちょっと気まずいなぁ」


 気まずい? と都古が聞き返すと、アカーシャは少しためらうような口ぶりで前置きをしてから、自分の研究に関わるものを、一度、寮に運びたいと思っているが、いかんせん数が多いから手伝ってほしい、ということだった。彼は極地工学研究グループに籍を置いているため、どうしても実験道具や成果物が必要になるらしい。


「なるほどな。いいよ、車を出そう。明日の朝、大学で落ち合おう」

「助かるよ。僕の知り合いだと、ミヤコしか車を運転できる人間はいないから」

「別に、お安い御用だ」


 そういうと都古は通話を閉じた。

 外はすっかりと暗くなってしまっていて、遠くの建物の窓の隙間からぽつりぽつりと漏れている光と、空に、これもまたぽつりぽつりと、光っている夜空の星々を除いて、光源はなにひとつとしてなかった。空を眺めると、たまに流星やオーロラ現象が観測できるが、どうやら今夜は見られそうにはなかった。窓から目を離し、視線を時計へと移動させる。短針は十一と十二の間をさしている。仮眠にしてはずいぶんと眠すぎてしまったと、都古はすこしだけ嫌な気持ちになった。時間を無駄にしてしまったような気がしたからだ。すこしだけ仮眠をしてから夕食にしようと思っていたが、その計画の前半半分はご破算となってしまったが、だからといって夕食が不要になるかといえば、もちろんそういうわけではなかった。激しい飢餓感が都古を襲う。


「夕食というよりも、夜食というべきだが」


 自分の腹部を抱えながら冷蔵庫を開いてみるが、中には、特別夕食になりそうなものはなかった。しばらく考えて、昨晩と今朝、先輩に食事を振る舞ったせいだということに気づく。しかし、いまから食材を買いに行こうとしても、こんな夜更けに営業している店を、この比較的小規模のヴィレッジでは、探すことはすこしだけ困難だった。ただ、まったく心当たりがない、というわけではない。都この家から国道沿いを歩いて十五分ほどのところに——彼の記憶に間違いがなければ——二十四時間三百六十五日休みなく営業している小さなコンビニエンスストアがあるらしい。「らしい」というのもつまり、都古はそのコンビニエンスストアを訪れたことはまだなかった。ただ、古い知人が話していたのを聞いていただけで、それが記憶に残っていたのは、先述のとおり、ここから比較的歩いて近い場所にあり、二十四時間営業をしている貴重な場所だったからだ。


 とはいえ、都古の足取りは重かった。車通りの少ない国道を歩きながら、友人から、そこのコンビニエンスストアで働く婆は非常にヒステリーで、ちょっと気にくわないことがあると平気で豆缶を投げたり、叫び声とともに店を出ていってしまったりするため、緊急の用がない限り、向かわない方が吉だ、と都古は念を押されていた。そんな彼は手で腹を抑えながら、自分の空腹が緊急の用事だろうか、切羽詰まった用事だろうか、と考えていた。息を吐けば白い。国道沿いには、ぽつりぽつりと民家が散在しているため、暗闇の雪山で遭難することはありえない。とはいえ、寒さと寂しさですこしばかり不安ではあった。


 国道沿いの民家を視線でなぞっていくと、なだらかで長い丘陵を経て、二〇〇〇メートル級の山々を連ねる山脈が見える。入植の際に行われた集団案内でその名前を一度、耳にしていたはずだが、名前は忘れてしまった。ただ、たしか現地の言葉で「拳の痕」と呼ばれていたのは覚えていた。ヴィレッジ(厳密には国道でつながったもうひとつのヴィレッジ)をぐるりと囲むように並ぶ山々は、地元の神話において巨人が戦いで拳を振るった衝撃によって生まれたものだと考えられているからだという。

 ほぅ、と都古はため息を吐いた。ヴィレッジとは研究地域の総称である。地球の寒冷化にともなって無人となってしまった村や町の中でも、カナリアや大学を始めとする企業によって買い取られ、環境調査のための都市として整備、再開発された地域のことをさす。だから、この地域には本当の意味での地元民は一人として存在せず、そのような人物はみな、高緯度の比較的暮らしやすい土地へと移ってしまったのだ。だから、目の前にそびえる山脈がかつて持っていた神話は知識となり、色あせて、無色透明となっている。


 都古はふと、ヴァルター・ベンヤミンの提唱したアウラと呼ばれる概念を思い出した。

 美術館に一枚の絵画がある。世界にその絵は目の前の一枚しかなく、鑑賞者もまた一人しかいない。今日の日付は二月十三日、この日しか、その絵を見ることは叶わない。もし、その絵が君の心を大きく揺さぶる時、君はその日付のことも、その美術館のことも、そしてもちろんその絵のことも、きっと永久に忘れることはないだろう。世界に同じ絵は一枚もないし、鑑賞者は他の一人だっていない、二月十三日は二度も訪れない。

 だから、かつて芸術作品の持つ権威はそんな一回性に支えられていたという。

 けれども、その絵画がもし、展示されている美術館には毎日百万人の人間が訪れているとして、世界中に多くのコピーが出回っているとして、毎日のように見ることが出来るとしたならば、はたしてこの全く同じ二つの絵画の権威もまた同じと言えるだろうか。複製技術によって生まれたコピーは伝統を剥ぎ取り、芸術作品のアウラを消失させる。

 都古は足を止めて山脈をじっと見ていた。ただ、それはいくら何遍と見たところで所詮山だった。これから新たに訪れる入植者に対して、かつて自分がされたように、神話について説明するのは、都古にとって簡単なことだった。けれども、そこには、とっくのとうに自然界におけるアウラは消失していて、かつての神話による畏怖や雰囲気を感じ取ることは不可能だ、と都古は考えていた。巨人たちは永久に吹雪の中へと身を隠してしまった。二度と現れることはない。


 いつまでも立ち止まっていると朝焼けを見ることになりそうだ、と都古ははっとして、再び歩き始める。そうしてから数分で、暗闇の中に目を痛めそうなほど光る照明が見えた。


 都古が店内に入ると、レジに座る女性がじろりとこちらを見た。彼は少し不思議に思いながら、奥の目立たない食料品コーナーの方へと移動した。自分の聞いた話では、老婆が経営していると聞いていたが、レジにいたのは若い女だった。下手したら、自分よりも年下かもしれない。もしかして、老婆が処女の生き血でも飲んで若返りを果たしたのだろうか、いや、まさか。常識的に考えれば、老婆の孫か、パート、アルバイト、そのあたりだろう。ということは都古にもわかっていた。ただ、少しだけ意表を突かれたのか、思わず都古は二度見してしまっていた。

 店内を見渡してみても、コンビニエンスストアには都古とレジの女以外には店員も客もいなかった。都古は家の窓からトランスポーターが走る様子を毎朝八時頃に見ていた。だから品出しの時間はまだ先だろうし、在庫確認はとうに終わっているに違いない。客足だってこんな深夜では少ないだろうから、店を回すには彼女ひとりで十分なのかもしれない。

 ヴィレッジがメーカーからの協賛を得て再開発されているため、全く同じ配置をしているコンビニエンスストアを、都古は一度訪れたことがあった。トランスポーターと地理的影響の関係で、運送できる食料品には制限があった。生鮮食品は基本的に置かれることはなく、豆と冷凍食品が棚二つを占領していた。都古はそこから豆缶とコーヒー豆、塩を手にとってカゴへと入れた。

 じりじりと鳴り響く白色電球の下で、都古はスナック菓子のコーナーを眺めた。キャンディーやチョコレートが所狭しと並んでいる。過酷な環境で生活するヴィレッジの住人にとって、こういった甘いものは、娯楽の一つになるだけでなく、すぐにエネルギーへと変換されることとも相まって、非常に好まれていた。


「アカーシャの分も買ってきてやろうか、たしかアイツの好きなものは……」


 そこまで呟いたところで、都古は思わず伸ばした手が止まってしまった。付き合いは決して短くはないはずだったが、都古はアカーシャの好物をうまく思い出すことができなかった。君は、君自身の形を探らなければいけない——記憶の損傷を自覚するとき、あの亡霊の言葉を思い出さずにはいられなかった。都古は表情を変えないようにしながら、適当な菓子をいくつかピックして、他の食材と同じようにカゴへと投げ入れた。

 子供に飽きられ捨てられたおもちゃのように放り込まれた菓子袋らのどれもが、都古の知る誰かにとっての、好物だった。けれどもその好物と誰かが、どのように対応するのか、都古にはまったく見当がつかなくなっていた。

 苦痛なのは、思い出せないことよりも、思い出そうとしなければ、忘却していたことすらも思い出すことができないことだった。自分の後ろ側がぼろぼろに削れているのに、鏡で見なければ気づくことのできないような、愚かさに対する焦燥感が都古の背後にあった。しかも恐ろしいのは——それが善意によるものなのか、それともヴィレッジの人間全員が狂ってしまっているのかはわからないが——都古の記憶喪失に対して、誰一人として言及しないところだった。問い詰めても、笑って流されるだけで、誰一人だってまともに相手をしてもらえない。


 途端、時報が鳴り響き、都古は驚いてハッとする。時刻がちょうど二時を回ったのだ。いつまでもコンビニエンスストアにいる必要はない。そう考えた都古は立ち上がってレジへと向かった。レジの女はずっとこちらを見ていたようだった。はじめ、それは無理もないことだろうと思っていた。このような時間に、彼は男で、彼女は女なのだから、たとえそれが仕事とはいえ、警戒されるのは仕方のないことなのかもしれない。けれども、それにしても、彼女の怯えているような、刺すような視線がどうにも引っかかった。彼女は黙って都古の持っていたカゴを受け取ると、プログラムに従うロボットのように規則的な動きで、レジに商品を通し始めた。レジに商品を通す間、彼女はまるで確認するように横目で彼を見ている。


「あの、すまないが」

「なんですか?」

「ああ、いや——」


 彼女はレジを打つ手を止めて都古の顔を見る。だが「どこかで会ったことがないか」と言いかけて、彼は一度口を閉じた。そんなことを聞けば首を傾げられるのは目に見えていたからだ。だから彼は誤魔化して別の話題をすることにした。


「ええと、ここはアルコールを置いていないのか?」

「今の時間は置いていないんです。ヴィレッジの規則で夜九時以降から朝十時まではアルコール類の販売は禁止されているので」

「そうなのか。わかった、また今度来るよ」


 そう言って都古は立ち去ろうとして、ビニール袋に詰められた品物を受け取り、ここでようやく、彼は彼女の顔を見た。ハッと目を引く美人、というほどではないが、その顔に都古は惹かれるところがあった。おそらく、その魅力は異性としての、ではなくて、自分のなかの欠落した記憶の一部が、これではないか、という確信から来ていると都古は理解していた——そう、彼は彼女とどこかで会った気がしたのだ。それも一度ならず、数度。ここではないどこかで。


「なぁ、君をどこかで見かけたような気がするんだが、どこかで会っていないか?」

「はい?」

「俺は大学で研究しているんだけれど、君はそこの学生だったり……」

 彼女はすこしクマの出来ている目で都古を見つめ、すこしばかり考えたそぶりをしてから「いいえ」と答えた。学生ではないようだ。

「変な質問をするが、俺は過去にここを訪れたことがあるか?」


 そうすると、彼女は自嘲的に笑うような素振りを見せた。毒が忍んでいるような、黒い笑みがそこにあったので、都古は思わずドキリとする。


「さっきから、口説いているんですか?」

「いいや、違くて。ああ、すまない……どうやら俺の勘違いだったみたいだ。謝るよ」


 そう言って彼は逃げるようにコンビニエンスストアから出た。その背中を彼女はじっと見つめていたが、都古はそのことに気を向ける様子もなく、帰路をたどった。冷たい空気が入り込んで、肺が刺されたように痛む。アウターの衣擦れの音と荒い呼吸が彼の脳に響いた。

 俺は彼女を知っている気がする。都古の頭にはそんな確信めいた何かが膨らんでいた。それは水蒸気のようなもので、無限に膨張し、彼の思考を靄となって阻害し、それを取り払おうとしても実態がないからすることができた。「気がする」は永久に「気がする」のままで、本当の確信へと変化することがないように思える。


「バカバカしい」と都古はひとりごちる。「そもそも本当にあったことがあるとして、どこで出会ったんだ。大学がありえないなら、このヴィレッジのどこで会えるっていうんだよ」


 都古は——穴ぼこだらけの記憶を参照すれば——あまり広い交友関係を築いてこなかった人間だった。少ない友人と会話を静かに楽しみ、家ではシミュレーションゲームを孤独に楽しむ。それ以外は研究、研究、研究。


 一部の入植者たちには、家で集まってパーティをすることがあるが、都古はそのような集まりに参加したことはなかった。その理由は自分が、パーティをよく思わない、やや後ろ向きな性格に起因しているだけではなく、そもそも都古のような学生がそのような悪しき(というのも、一部のパーティは、ヘロインや注射針などの摂取器具の売買の場となっていた)集まりに参加するのが明るみになると大学から除名処分を受けるからだ。一般の入植者と比較して学生の入植者に対する処分は、大学の権威とその協賛者の名誉に傷をつけることになりかねないため、非常に重いものだった。大学からの除名処分は、そのまま世界に偏在するすべてのヴィレッジへの入植を禁止されることにつながる。さらに、それはまた、そのまま研究者としての未来を絶たれることにつながる。だから、記憶を失っていたとしても、自分が学生であると認められている現状から判断するに、自分は過去の一度もパーティに参加していないことになる。参加していないパーティで彼女に会うことはありえない。

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