第3話

 朝日が昇るにつれて吹雪が晴れた。吹雪が晴れるとともにトヨタのエンジン音が窓の方から聞こえてきた。長く使いつぶしているからか、ぷすぷすと燃費の悪そうな音が混じる。壊れかけの日本車を大事そうに使う人間はヴィレッジのなかでも彼女しかいない。


「お迎えの音だ」


 その声に半分かさばるようにクラクションが鳴る。彼らは彼女に急かされている。ヴィレッジとヴィレッジを結ぶ国道にはかならず融雪パイプが設置されている。だから昨晩のような吹雪でも、道に沿ってのびるパイプから流れる温水によって、道路は積雪を免れていた。しかし、都古の家は国道から一本私道に入ったところにあるため、そこまでは除雪で道を作る必要があった。

 雪は都古の膝のあたりまで降り積もっている。足を入れれば深くまで踏み抜くことができる。水分を多く含んだ雪ではないのだろうか、先輩が雪を握ると、まるで砂のようにさらさらと音もなく、こぶしからこぼれ落ちた。


「パウダースノーですね」

「どうやらそうらしい。昨晩の風は俺たちの思っている以上に激しいようだな」


 さくりさくり、と踏み抜いてできた足跡を都古がなでると、なかば泥のように澱んでいた。吹雪が地面の雪を舞い散らせると、このような現象が起こる。水分を多く含んだ雪を地面に、少ない粉雪を上へと運ぶ。これがいわゆる地吹雪と呼ばれるものだ。


「五十年前は、この土地でこれを見られるのは、たった十年に一度と言われていたそうだぜ」

「ただ、今年で三度目です」


 先輩は少し俯いて考えるようなそぶりを見せる。

 オレンジ色のウェアがそよ風に吹かれ、その影がゆらりと動いた。


「なぁ都古、俺たちには何ができるだろうな」

「さぁ」そう言いながら、都古は遠くを見た。大学の尖塔が天を衝くように伸びている。「学生の俺が言うのもなんですけれど、やっぱり、目の前のことをやるしかないんじゃないですかね——先輩の口癖の通りに」

「ハハ、じゃあまず雪かきからだな」


 そういうと彼は雪かき用のシャベルに足をかけ、雪にそれを突き立てた。さくり、という音とともに、深く沈んでいく。空はすっかり晴れていた。


「ごめんなさい、本当にこのバカが」

「全然大丈夫です。このバカにはいつもお世話になっていましたから」


 テセイアは先輩と交際をしている院生の三年で、古生物学を専門に研究していた。入植したのは十年ほど前で——彼女は自身の出身を明らかにはしていないが——北欧を想起させる端正な顔立ちから、ヴィレッジ内でもよく知られていた。そんな彼女が自分に対して頭を下げてあやまっている。これが研究所の男衆に見られれば、絞められるだろうか、それとも、先輩のやったことが原因だから先輩が絞められるだろうか、都古そんなことを思案しながら、ある程度先輩をフォローをしておいた。「このバカ」と言われた先輩は否定することができず、ただただ苦笑いをすることしかできなかった。


 いたずらをした猫を連れ帰るように彼女は先輩の首根っこを掴んで、車の中へと連れて行ってしまった。まるで漫才夫婦のようだ、と思いながら都古はテセイアの運転する車を見送った。二本のシャベルを脇に挟んで家へと戻った。先輩が帰った家はずいぶんと寂しく見えた。それは都古にとって日常と呼ぶべき光景のはずなのだが、いつもにまして、部屋ががらんどうの空洞のように見えた。普段は馴染みすぎて気付かないだけで、ここは二人で使ってようやく満たされるのかもしれない。ひとりでは、とても満ち足りないのだ、と都古はそんなことを考えながら、コーヒーでも淹れようと、ヤカンに火をかけた。


「同居人とか募集するといいぜ、カナリアは必ず、同じ部屋を二人以上でシェアする、つまり共有空間を作ることが義務付けられているんだ。精神衛生上のためにな。おせっかいかもしれないが、俺はそれが、お前にとって重要なものだと思うが」


 昨晩、先輩が話していたことを、なぞるように思い出す。まったく彼の言う通りだ。と都古は溜息をついた。ヴィレッジの入植者には、一軒の家を選んで貸与される権利を持つ。しかし、いったい、どういう経緯で、この一人で暮らすには広すぎる家を選んだのか、都古は思い出すことができなかった。屋根の色だろうか、立地だろうか。そのくすんだ色が、この辺鄙な場所が、それほど魅力的に映っただろうか。

 結局、その日はそれ以来特別なことはなかった。午前中にシミュレーションゲームを無心でプレイし、キリの良いところまで進めると、昼食を取って、研究に関わりそうな論文をいくつか読み漁った。気付けば夜も更けて、外の光量の変化を感知したセンサーが部屋の電気に命令すると、パッと明るくなった。そこでようやく都古は、一日の時間の流れを感じ取った。とても無為な一日を過ごしたような気がする。都古はそう思いながらも、特別なことを何一つ企てられずにいる。そんな自分の無力感と、まともな研究の一つも納められない劣等感で混濁して、緩めば気をおかしくしてしまいそうだった。

 シミュレーション画面に映る、凍った惑星を見ながら、それから沸騰した水をマグカップに注ぎ、ゆっくりと喉を潤した。そしてまた論文に目を戻す。


 この惑星を苛む凍傷の仕組みにはいくつかの説が存在する。大きく分けて三つ。温室効果ガスの不足、白による太陽光の反射(アルベトの高い状態)、そして成長し続ける氷床。そのどれか一つのみが正しいというわけではない。もしかしたら、すべての作用がうまく合わさって、凍結する惑星へと歩みを進めているのかもしれない。つまり、起こっているのはまさしく負のスパイラルだった。氷床が成長すると、太陽光の反射率、アルベトが大きくなり、地球が冷える。地球が冷えると、また、氷床が成長する。

 温室効果ガスである二酸化炭素も、本来ならば地表へと放出されるのにも関わらず、この氷床によって地・海水中に閉じ込められてしまっていることも原因だ。氷床が成長すれば閉じ込められる温室効果ガスも増える。そうすればまた地球は凍結していく。世界は自分たちにとってひどく理不尽に出来ているようだ、と都古は実感するたびに舌打ちをして、頭を掻いた。先行きの見えない不安が彼の心を苛む。


「地圏研究グループに属しているからと言ってあまり肩肘張る必要はない。すぐに人類を救う術など、そうそう見つかるものではないのだから。そもそも、君は若いんだし、研究以外のことも……別に、カナリアに絶対行かなければいけない、そういうわけではないのだろう?」


 今年何度も聞いた担当教授のセリフが脳内にフラッシュバックする。教授はミヤコに対して諭すように、きまって愛想笑いを浮かべてそう話していた。実際そのとおりだと都古自身も納得している。ただ、納得しながらも胸の内には、身元不明の焦燥があった。ちょうど、体にぽっかりと空いてしまった穴のような。


 カナリアとは地球の南と北の極地研究所のことだった。南カナリアと北カナリア。人間に自ら死をもって危険を知らせる鳥の名前から名付けられたそこは、環境問題に取り組む研究所では最先端であり、最前線である。

 都古には別にそこで研究したり、働いたりしたいという気持ちもない。高給で福利厚生も厚いという話だが、強い野心を持っているわけではない彼にそこは特別魅力的には映らなかった。たとえ、そこで先輩が勤めているとしても。そもそも致命的なことに、彼には実績も実力も持っていない。


 重い溜息を吐いてモニターから目を離す。気付けば時刻は十九時を回っていた。健康で文化的な生活を心がけるならば、そろそろ夕食を取るべき時間だが、運動不足のせいだろうか、どうにも食欲の欠けるところがあった。憂鬱で、何も食べる気になれない。けれども、それとは別に、胃袋が空っぽであることを体が主張しているのだから、人間の体がいかに難儀なものかをしみじみと感じていた。せめて、一睡だけしよう。十五分だけ仮眠を取ろう、と考えて彼はソファーに横たわる。

 天井に回るシーリングファンの音がやけに気になった。温暖な空気を部屋全体に循環させるために、人感センサーが反応すれば必ず回るようになっていて、こちら側から操作することはできない。本当に、いったい何が気に入って、自分はこの家を選んだのだろう、と彼は疑問に思った。けれどもその疑問は長続きしないだろう。それすらも忘れて、今はただただ眠りにつきたかった。そのために彼は瞼を硬く閉じる。そうすると、不意にシーリングファンの回る音が聞こえなくなった。

 今まで聞こえていたものが聞こえなくなって、都古はぱちりと目を開いた。シーリングファンは止まっている。おそらく止まったのはそれだけではないだろう。パソコンを冷却するファンも、時計の針も回転運動を止めていた。きっと地球の公転運動と自転運動も止まっているだろうな、と都古は頭の中でつぶやく。だから、これは夢だ。


「あるいは、今まで見ていたものが現実なのかもしれない」

「いや。虚構はきまってそう言う」


 誰かの声に対して、都古はそのように反論した。声のした方向を見ると、その主人は部屋の隅に置かれた椅子の上に座っていた。それは亡霊だった。都古にしか見ることのできない亡霊。女の亡霊。短く切りそろえた髪と、ちょうど医者が着るような白衣が、都古にとって印象的だった。視線が合う。歳は十代のようにも見えるし、二十代後半の落ち着いた雰囲気も携えている。揺れる前髪と前髪の間から瞳が覗いていた。刺すような、それでいて撫でるような視線だった。


「それって」彼女は都古を見つめたまま、言葉を続ける。「誰かの受け売りだったり?」

「いいや。まぁ、そんなことはどうでもいい。結局、お前はなんなんだ? この家に住まう亡霊なのか? 俺に取り憑く悪霊なのか? それとも俺が見ている幻覚か夢なのか? 

 霊なら早めに成仏してほしいし、夢なら二度と出てこないで、とにかく消えて欲しい」

「ひどい言われようだね。特別悪さをしているわけではないのに」

「存在自体が迷惑なんだ」

「本当にひどいね。でも、残念ながら私は消えないよ。見えなくなることはあっても」

「深海ではだんだん赤が見えなくなるように?」

「どういうこと?」

「波長の関係だ。深海では赤は吸収されてしまって見えなくなる。深海のエビやカニが赤いのはわざわざ赤い色素を分解せずとも、天敵に捕食される危険性がないからで——いいや、そんなことはどうだっていい。見えなくなると存在しないは一緒なんだ。もう二度と俺の前に姿を現さないでくれよ。亡霊が喋っていると、ゾッとする」


 それを聞いた「ふふ」とほほ笑むように笑って、白い足をクロスさせて、膝に手を置く。それから誤魔化すように「どうだろう」と言った。


「二度と現れない、そんな保証はできないよ。なぜなら私自身、自分が何者かなんて、全然わからないんだから」

「そんなわけないだろ」と都古は呆れるように反論する。

「じゃあ逆に聞くけれど、君は君自身を知ってる? もちろん。年齢や名前の話ではなくて」


「それは」と言って都古は思わず言葉をつまらせた。どうだろう。自分は自分のことを把握できているだろうか。思索を巡らそうとすれば、そこには無視できないほど巨大な空白が、人を殺すクレバスのように存在していた。


「君だって馬鹿じゃないんだ。もう気づいているだろう?」


 亡霊が都古に問いかける。その視線の先は、窓の外の静止した景色にあった。

 そのクレバスの穴を覗くが、底は見えない。深い青だけが反射している。もし、この穴に体を乗り出せば、落っこちて、もう二度と帰って来ることはないだろう。彼にはそんな確信があった。もちろん、それはあくまで心象の比喩であって、実際にクレバスが存在しているわけではない。つまり現実的な事実は、自分の存在に大きな穴があいているということ、そしてそれは失われていて、永久に取り戻すことが叶わないことだった。

 都古は記憶を失っている。そして都古の前に亡霊が現れたのは、ちょうど都古が記憶を失っていることに気づいてからのことだった。


「君は、君自身の形を探らなければいけない」


 白衣を着た女の亡霊にそう言われて、都古はハッとする。ちょうど悪夢から目覚めた時のように、ガバリと顔を上げた。周囲を見渡すと、世界の時間は動いていて——つまり、シーリングファンはもちろん。パソコンを冷却するファンも、時計の針も回転運動も動いている。おそらく地球の公転運動と自転運動もそうだろう——机の上に置かれたタブレットから、着信音と振動音が鳴り響いていた。

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