第2話
夜になると先輩はベッドから飛び起きて「回復したぞぉ!」と声を張り上げた。もしここがアパートや移動式の連結コンテナならば、玄関のドアに騒音苦情の張り紙が貼られていただろう。
その時、都古はパソコンの前でシミュレーションゲームをしていた。とある銀河に突如生まれてしまった惑星を、その惑星の変数を操作することで少しでも長生きさせることを目標としたものだ。あまりユーザーからの評価は高くないゲームだが、都古はこれを好んでプレイしていた。ほかのユーザーと争うところが、せいぜい上手く飼育してどれほど長生きさせることができたか、というところぐらいしかないところも、競争や対立をそこまで好むわけではない都古にとっての気に入るところだった。
都古は突然の声にドキリとし、都古の惑星はありえない質量へと変動し、次の操作を受け付けぬまま圧し潰されてブラックホールとなってしまった。それを見た先輩は申し訳なさそうな顔をして頭を掻く。
「おっと悪い。けれど助かったぜ都古。おはよう!」
「おはようございます。……まぁ、今は夜の八時ですけど」
窓のカーテンは閉じられていて、部屋のリネンライトだけがぼうぼうと光っていた。都古はあまり強い光を好まない性だった。白色電球などはとくに。
「ところで、今日は何曜日だ?」
「まだ土曜日です」
先輩はなんてこったいというような顔をしてから「土曜日?」と訊ね返す。
「ええ、あと四時間でこのヴィレッジは日曜日になります。だから〝まだ〟土曜日ってわけです。うん。なんでそんなに引きつった笑いをしているんですか?」
「俺は金曜日の夜に彼女、つまりテセイアと再会の食事をしたあたりから記憶がないんだが……あの時その場にお前もいたっけ」
「いるわけないでしょう。俺はアンタが帰ってきたことすら知らなかったんですよ。あ、あとテセイアさんには連絡を入れました、吹雪が止んだらここまで来るって、まぁ、はやくても明朝までこの吹雪は続くらしいですけれど。ああ、もし、早めに彼女に会いたいんなら、どうぞ。スノーウェアとショートスキーくらいなら貸せますよ」
「冗談よせよ。お前の家から彼女の家まで片道5キロはあるんだぜ。こんな吹雪の夜にそんな軽装でひょいひょい外に出たら、目的地に着く前に世にも珍しいホモサピエンスの冷凍標本になっちまうよ俺は――って、もしかして怒っているのか?」
「貴重な休日の朝から下半身を露出した男が吹雪のなかからやってきたら、誰だって不機嫌になりますよ。ついで、俺の育てていた惑星もブラックホールになったしね」
そういって都古は壁からのびるワイヤーに掛けられたスノーウェアのズボンを指さした。鮮やかなオレンジ色のそれは、チャックが壊れていて、右ひざが破けている。
「それは酒の勢いだ。許せ」
彼はパン、と両手を叩いて都古に「頼む」の態度をとった。
「はぁ……いったい何を思ってあんな寒空の下で露出を試みたんですか?」
「地球をファ――ああ、違う違う。強姦してやろうと思っていたんだ。酔った勢いでそんなことを思いついて、それで穴を掘って――」
「最低だ……ド変態だ」
都古はげんなりするような顔をしてつぶやくように言った。
「それくらいの気概、地球に対する嫉妬を持たなきゃ『カナリア』に勤められないぜ」
「これから食事だって言うのに、そんな下品な話、俺は聞きたくなかったですよ」
「ハハ、悪いな。ご馳走になるよ」
都古は「まぁ、いいんですけれどね」と言って、冷蔵庫からレトルトパウチを取り出し、湯銭しようと試みた。鍋の水は熱を加えられ、その身の内にエネルギーが貯まる、それは次第に抑えきれなくなってあぶくとなる。コトコトと音を立てるさまを、二人は耳を傾けていた。パックを切ると、ビーフシチューが皿の上にどろり、とこぼれ出す。かちゃりかちゃり、とスプーンが皿を叩く。
机の横に付けられたテレビでは愉快なエンタメが流れている。今流行のコメディアンが体を張ってフィッシングに向かうというもの。ただ、二人とも流行に疎く、その角刈りのコメディアンがいったいどんな人物なのかは、まったく知らなかったし、またどうでもよかった。部屋が静かで寂しげだからなんとなくテレビをつけているだけで、特別それに興味があるわけではない。「みなさん! 見てますか!」とコメディアンはカメラに向かって声をあげる。しかし、都古も先輩も視線はビーフシチューに向いていた。
こうして目の前に先輩がいると、彼がまだカナリアへと向かう前の学生時代を思い出す。
昔はこうして、机を囲んで、環境問題やら、政治問題、ついでに色事なんかを話し合ったものだったが、最近はそもそも吹雪で休講になることが増え、食事する機会すら失われつつあった。
「ところで」と、先輩は食事の手を一度止め、窓の方を見やった。窓の方、とはいってもカーテンは下ろされていて外の景色は見えない。その代わりに風が、まるで中に入りたがっているように、窓を叩く音がそこから聞こえている。
「さっきの話の続きなんだが、共感できないかな。この凍った世界に対してムカつきを覚えて、どうにもならなくなっちまう感情について」
「ストレスではなくて?」
「あー、違うんだよ。なんだろうな、イライラっていうのが悪いのかもしれん。つまるところ、そういう地点から離れた、もっと衝動的なものだよ」
都古も食事の手を止めて、少し考えた。
「性欲じゃなくて、支配欲だ」
「そっちの方が強いのか?」
「時と場合に依りますけれど――ただ、理解はできても俺には共感できないですよ。だって先輩、それは先輩が天才ゆえの悩みだからですよ。普通の人間は自然に対して畏怖か、無感覚でしかいられないんだ。少なくともぶち犯してやりたいなんて、そんな発想すらない。
あの吹雪だってそうで、本来は逆らうものじゃないんですよ。むしろ、逆らおうとすら思えない。ましてや怒りなんて感情は、ほど遠いんだ」
「ご高説賜るね」
「皮肉ですか?」
「ぜんぜん。面白い分析だと思う。大学を卒業したら詩人か小説家を目指すつもりかよ?」
「先輩の言うことだ、胸に留めておきますよ。
ところで、どうしてここに戻ってきたんですか?」
「なに、ただの冬期休暇だよ。これからの時期のカナリアは季節が不安定だからな。ブリザードが起こればフィールドワークはおろか、施設内でやる実験だって難しい。この前なんか氷床末端地形の引き起こす地形の影響について調べたい、なんて言って無断で外出したら、突然気候が変わって危うく遭難しかけた奴もいるぐらいだ。
うん、いや、実のところ、厳しい環境なんてどうでもいいんだ。本当に問題なのは『それで死ぬなら本望じゃないか』って考えてしまう俺たち研究員なんだよな」
「地球に呪われてますね」
「地球に恋してるんだよ」
先輩の目はどこか本気だった。それは都古が逆立ちしたって手に入らない輝きを秘めていることを、彼自身は知っていた。欲望と理性がしっかりと同居して、どちらもが上品であるような。
「なんだっていいですけれど、あんま無茶はしないでくださいね。いくら放任主義を自負しているからとはいえ、彼女だって心配してるでしょうし、ヴィレッジの皆だって、アンタのことを誇りに思っているんだから」
先輩は苦笑いしてビーフシチューを口に入れた。
事前に受け取っていた予報が正しければ、吹雪がもっとも激しいのはこの時間帯だった。だからだろうか、テレビがぷつりと切れて、部屋が突然音を失ったように静かになってしまった。照明が生きているので、どうやら停電ではないようだ。
「吹雪が電波を阻害しているのかな」
「多分、そうですね。ウチのケーブルは地上にあるので」
「工事しないのか?」
「ええ……まぁ」
都古は苦笑いをして曖昧な返事をした。もし地下に回線を敷いていれば、いつだって国際センターからや環境庁から、いつでも最新の観測データを受け取ることができる。だけれども、都古がそれをしないのは単に設置費用が割高だからだ。少なくとも、同じ金額を工面できたとしても、通信回線を整備するより、別のことに費やしてしまうだろう。ただ――カナリアの観測データを基に行われる予測が百パーセント正しければ、というような前提で話せば――これから、ブリザードと呼ばれる激しい吹雪が頻発するようだ。もしかすると、カナリアでしか観測されないB級以上のブリザードが起こって、防雪柵や防雪林の設置が急がれるようになるかもしれない。
ブリザードが頻発するようになれば、自分は永久に孤立するかもしれない、そんな不安がときたま都古の脳裏によぎる。通信回線の喪失はそのまま、外との関わりが喪失することを意味していた。
「寂しくないか?」
「いや、とくに……たまにうなされることはありますが」
「同居人とか募集するといいぜ、カナリアは必ず、同じ部屋を二人以上でシェアする、つまり共有空間を作ることが義務付けられているんだ。精神衛生上のためにな。おせっかいかもしれないが、俺はそれが、お前にとって重要なものだと思うが」
「……ご高説どうも」
それからは何もない時間が過ぎていった。吹雪は都古と先輩の存在を無視するかのように吹き荒れる。昨晩よりも勢いを強めたそれに対して、彼らはなにひとつとして抗う術を持たず、ただじっと、穴倉のような家のなかで災いが過ぎ去るのを待つしかない。
「俺ら」と「彼ら」では、捕食者と被食者よりも残酷な非対称の関係性ではないか、と都古はしばしば感じていた。カナリアを始めとする多くの研究者が地球凍結化の原因や解決策を探っているというのに、自然は自分たちのことを無視して幅を利かせてしまう——しかし、その格差は、そもそもそういうものなのだ。
すべては仕方のないことなのだ。通信回線の整備を強いられるのも、先輩がカナリアで命を賭して働くのも、防雪柵や防雪林の設置について考えなければいけないのも、すべては地球の寒冷化によるものだ。都古にとっては、それでこの話は終わりなのだ。
けれども先輩はそうではなくて、それを理由に「自然」という曖昧模糊で暴虐な概念を相手に——それは酔っ払って行った衝動的な感情とはいえ——怒り狂うことができる。
都古と先輩の差というのは、この残酷な非対称の関係に対する感受性の差なのだろうと、都古は考えた。自分は明らかに、野心のような感情が欠落している。この目の前の男には、自分の持っていない凄みをもっている。それに対して一種尊敬の意を覚えるとともに、なにか歯がゆい思いが都古の胸に生まれていた。強気と弱気。彼と自分の間に埋める差の大きさ、いいや、差といってしまうのは語弊がある。そもそも違う生き物なのかもしれない、と都古は思案する。
都古は先輩とアルコールを嗜みながらゲームをして夜を明かした。ゲームに飽きると、地圏研究グループの研究進捗や、カナリアの研究環境についての話をして時間を潰した。
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