その後、私はことあるごとに妹に助言を乞うようになった。

 台詞の言い回しや展開の選択、果ては主人公の設定に至るまで様々なことを、それとなく妹が気づかれないように聞いた。

 そして実際、彼女は気づいている素振りすらなかった。彼女はよく「小説はあまり興味がない」とか言っていたから、私の本の内容すらよくわかっていなかったのだと思う。

 それで的確な指摘ができることも空恐ろしいことだと思うけれど、彼女の指摘はいつも正しかった。


新しい作品が出るたびに売り上げは伸びていき、私の評価は上がっていった。

 編集者には見違えるほど良くなった、あなたを信じていてよかった、とまで言われた。

 SNS上でも称賛の嵐だった。もう彼女は自分に張り付けられたレッテルを克服して、立派な小説家になった、なんて書かれているのを見たときには自分でもわかるほど恍惚としていた。


 どうしてもっとはやくこうしなかったんだろう、なんて思ったときは流石に自分のことを責めたけれど、そう思ってしまうくらいには、万事が恐ろしいくらいにうまくいっていた。


 それと同じ頃、妹には学校で親友ができたようだった。彼女はいつもその親友のことをとても嬉しそうに話すのだった。時折その子の家に泊まりに行く許可を求める時には、私を一人にすることが申し訳ないように思っていたみたいだった。


 私も妹と離れるのは少し寂しかったけれど、私は大抵許可を出した。私は親ではないし、妹を拘束する権利もない。やりたいようにやればいいと思っている。

 どうせいつかは別々に住むのだし今のうちに家事ができるようにならなければいけない、という気持ちもあった。


 それでも、私たち姉妹は変わらず仲良しだった。家事では失敗ばかりで、よく彼女に叱られた。けれどその後に始めから教わったり、一緒にご飯を作ったりした。

 休日にはよくショッピングモールへ一緒に買い物に行った。家にいる時は必ず一緒に食事をとり、学校の話などを聞いた。


 でも、私には常に後ろめたさがつきまとっていた。結局は承認欲求が勝ってしまっているからこうなっているけれど、妹の発想を無許可で使用していることに申し訳ないと思わないはずもなかった。

 包み隠さず、あなたにどうすべきか聞いたところは全部あなたの案を使っています、盗作してごめんなさい、と言ってしまえばどれだけ楽になるだろうと思った。


 当然のことながら、私にそんなことはできなかった。妹はきっと許してくれるのだろうと心では思っていたけれど、私は彼女に嫌われてしまうことを何よりも恐れ、その可能性がわずかでもある行動を自ら引き寄せることを極端に嫌った。それも当たり前であるように思えた。

 私はそもそも、大学を出てからどこにも就職していないこともあり人づきあいが極端に少なかった。彼女を失うと、私の人間関係は編集者等の事務的なものを除けば皆無だった。


 一度だけ高校の同窓会に出席したことがあったけれど、「作家をやっている」と言った時の好奇心をはらんだ「異物を見る目」に耐え切れず、それ以来行っていない。こうした周囲からの「憧憬」、それに伴って際立つ「孤独」、そして妹への「葛藤」の中、私の身体と心は少しずつ乖離していった。そうしてできた「虚無」の空間には、「それ」が徐々に住みついて徐々に私の理性の呪縛から解かれていくのだった。


「それじゃあ、行ってくるね」


 初夏のある日、私は妹にそう告げて、家の扉を開いた。ここ最近は妹と外出することもなかったので、久しぶりの外出だった。

 煌めく日差しが着てきた真っ白いワンピースに眩いばかりに照り返すので、私は思わず目を細めた。持ってきた折り畳みの日傘を、早速開く。

 今日は日差しが強いから日傘を持っていくと良い、という妹の忠告を聞いて正解だった。

 もうじき梅雨がやってくるはずだ。雨自体は嫌いではないけれど、湿気が多いと髪がまとまらないことが、私と妹の不満だった。

 そういえば、髪がいい加減鬱陶しくなってきた。そろそろ美容室に行こう。そんな詮無いことを考えながら、かつかつとミュールの地面をたたく音が小気味良く響かせて駅へと向かっていく。


「インタビューをさせていただきたいのですが、いかがでしょうか」


 数週間前、私がパソコンを開いて最初に飛び込んできたのはインタビュー依頼のメールだった。正確には覚えていないけれど「今を時めく作家」とか題して数人の作家に、簡単な対談とインタビューをしているらしく、私がその一人に私が選ばれたそうだった。


 「罪」を犯し始めてから数年が経ち、妹が高校三年生に進級した頃のことだった。無論、私は承諾した。後ろめたさはあるにせよ、積極的に断る理由はない。

 逆に、下手に公への露出を減らしてしまっては却って怪しまれかねないとすら思った。その仕事を受ける旨を伝えると、とんとん拍子で場所や日程が決まっていった。


 そして、今日がそのインタビューの日だった。私の意向もあって編集者との打ち合わせは専らメールで行っていた。急用はテレビ電話等で済ませていたし(それもデビューしたての頃に数度くらいしかなかったが)、これまでこういう仕事は来たことがなかった。だから、仕事で家を出るのは初めてだった。


 そもそも、こうして一人で家を出るのはいつぶりだっただろうか。もしかしたら、大学を出てからは初めてかもしれない。家を出る機会も、電車に乗る機会も、家族以外の誰かと話す機会も、私は積極的に投げ捨ててしまったのだなぁ、といった益体のないことが頭の中にぼんやりと思い起こされた。


 電車がホームにやってきた。車内から漏れ出た乾いた冷気が私の頬を撫ぜて、一瞬だけ自分の温度感覚を狂わせる。

 昼過ぎで人は少なかったけれど、数駅で降りるので、座らずにドアと座席の間に寄り掛かった。車窓からは、マンションが次々と遥か後ろへ遠ざかっていくのが見える。


 最後にこの景色を見たのが随分と昔だったからか、少し楽しく思えた。

 そう、私は普段なら疎ましくさえ思う太陽も、肌にまとわりついていた熱気も、少し鳥肌が立つくらい寒い電車も、全てが楽しかった。


 いや、正確には、世間からの評価が得られたことで舞い上がっていて、それがありきたりな風景を輝かせているのだろう。昔はそんなこともなく、ただ純粋に世界中のすべてが楽しかったのかな。座席に膝立ちになって窓からの景色を眺め、母親にはしたないと叱られたのは三歳の頃だったっけ。


 そんなことを思ったところで、身体が軽く揺れた。電車はゆっくりと減速していて、どうやら目的の駅に着いたらしかった。


「それでは、よろしくお願いいたします」


 インタビュアーが告げると、それにつられてぱちぱちと手を打つ音が聞こえてくる。私はゆっくりと足を踏み出して、部屋へと入っていった。


 拍手がひときわ大きくなる。悪い気はしなかった。ぎこちないながらも顔に笑みを浮かべ、方々に軽く会釈してから促された席に座る。


 今回の対談は、観客がいることが事前に通達されていた。会場は出版社の会議室だかセミナー室を使うらしかった。大目に見積もっても二〇〇人は入らないだろう、というくらいの規模だった。

 正直、謙遜なしに自分の話をそんなに多くの人が聞きに来るものか、と思いもしたのだが、いざ部屋を見渡してみれば、ほとんどの席が埋まっている。こんなにも私は人気があったのか、と思ってしまうくらいには。


「先生、それでまずはですね……」


 そうして、対談が始まった。多くのことを聞かれた。私は「罪」について気づかれないように細心の注意を払っていた。


 私の趣味、嗜好、人生について。尊敬している人物。デビューした時のこと。

 書けない時の対処法について聞かれたときには心底焦ったけれど、甘いものを食べることだとかなんとか言って誤魔化し通した。

 質問は少しずつ深く、細かいところへと進んでゆく。作家という職業について。私が書きたいこと。目指している境地。正直、私はそんなに細かいところまで考えておらず、ただただ生活のために書いていたから、事前に多少考えていたとはいえ、大分適当なことを言ってしまったと感じた。


 そうして、予定されていた質問が全て終わったころだった。締めのあいさつのようなものがされたので、ひと段落したと思って肩の力を抜こうとしたとき、突然インタビュアーが妙なことを言い出し始めた。


「時間が少し余ってしまったので、何か皆様からご質問があればどうぞ」


 待ってくれ、と素直にそう思った。声に出ていたかもしれない。これ以上深く聞かれると致命的なことを口に出しかねない。

 しかし、私が断っても怪しまれることには違いなかった。私が困っている間にも話は進んでいく。あぁ、やはりこんな仕事を受けるべきではなかった。私が味を占めたばっかりに。


「あの作品の、主人公の心情について聞きたくて……」

「最新作の終盤で……」

「この作品、先生の作風がいい方向にガラっと変わったように思うのですが……」


 矢継ぎ早に質問が畳みかけられる。全てが妹の案を借用した箇所だった。

 勿論、私に答えられるものは一つもない。いつかはこうなると分かっていたのに。私のものではないこともいずれは気づかれることだったのに。後悔する一方で、私の中を絶望が駆け巡る。


 あぁ、結局私の書いたところなんてちっとも評価されてなんかいなかったんだ。私の話を聞きに来た人ですら、あれが私のものでないことに気づいていなかった。


 私には何もなくて、彼女には全てある。唯一残されていた砦も、知らぬ間に奪われてしまった。私は何のために今まで書いてきたんだっけ。何を書いてきたんだっけ。何を書きたかったんだっけ。そもそもこれは私の意思だっけ。何も思い出せないような気がした。


「あ、ええと……その……」


 鼓動が脳を揺らし、目の焦点がうまく定まらない。視界が揺れる。顔が強張っている。上手く呼吸ができず、声が震えているのが自分でもわかる。しどろもどろな回答しか出て来ない。言葉を発するたびに汗が噴き出してくる。

 今までもっと真剣になっていれば。嘘なんかつかなければ。幸せなんて求めなければ。彼女に頼ろうとなんて思わなければ。沢山の後悔が綯い交ぜになって、知らぬ間に制御できないくらい大きくなっていた「それ」と結びついていく。



…………いいのに。


 自分でも聞き取れないような小さな願望が、口の端から漏れ出たような気がした。

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