下
そのあとのことはよく覚えていない。気づいたら私は電車に乗っていて、椅子に座りながら項垂れていた。
ふと顔を上げて電光掲示板を見れば、最寄り駅の真反対の駅に到着するところだった。携帯を鞄から取り出して、通知を見る。
今日はありがとうございました、お疲れの中お呼び立てしてご迷惑をおかけしました、お身体にお気を付けください、とメールが届いていた。
それを見ると、少しずつ記憶がはっきりしていった。確か私はあの時、何か、恐らく質問の解答を言おうとして立ち上がり、そしてフラフラと椅子に倒れ込んだはずだ。どうやらその後私は体調不良とみられて退席したらしい。大方、一人でも大丈夫ですとか言ってその後は一人で電車に乗り、そのまま寝てしまったのだろう。
ここまで思い出した時、不意に私は嫌な予感がした。あの時、座り込んだ後に私は何か言わなかったか?取り返しのつかないような、とんでもない一言を口走ってしまったのではないか?
ほんの少しの不安は、既に不安定になりつつあった私の心をかき乱すのに十分だった。今思えばきっと何も言わなかった可能性の方が高いし、もし何か言っていたとしても聞かれていないのだろうけれど、生憎その時の私には心の余裕がなかった。
環状に走り続ける電車の中で私の思考も同じようにくるくると回る。どうしよう。どうすればいい。どうしようもない。何か手はないのか、自問自答しているうちに「それ」は徐々に私の心を蝕んでいく。
…………してしまえば良いのではないか?
うるさい。私は「それ」の囁きを追い払うために頭を振った。それなのに「それ」の囁きは大きくなっていくばかりで、中身も具体的になっていく。ずっと隠していればきっとばれない。それがいいに違いない。これがたった一つの冴えたやり方だ。
これが私の本心なのではないか?いけないと思っているのは、実は私の道徳心やつまらない躊躇で、実際は逆転しているのではないか?段々と自分が分からなくなる。
善も悪も、喜怒哀楽も、全てがたった一つの衝動へと還ってゆく。激情に駆られながらも、私の心中は穏やかになっていた。顔には微笑さえ浮かべていたのかもしれない。今しがた、私の進むべき道は決まったのだ。不可逆なこの道を進む以外に、私のとれる道はない。
電車は半周して、私の家の最寄り駅へと到着したようだった。私は震える手で手すりを掴み、ゆっくりと立ち上がった。電車を降りて、ゆったりとした足取りで家路につく。すっかり夜になっていた。雲間から光る月は夜空にある唯一の光源で、まるで光明のように私を行く道を照らしていた。
「お姉ちゃんどうしたの?連絡もなしにこんな夜遅くまで外に出るなんて」
妹は開口一番私を心配してくれた。
「ちょっと向こうで体調崩しちゃってね。心配かけてごめん」
私は努めて冷静に振舞った。きっと一分の不自然さもなかっただろうと思う。
「もう、ほんとに心配したんだから……それで、ねぇ。今日その……今から友達のところ泊まりに行ってもいいかな?」
妹はひとしきり私を心配した後に、上目遣いで私を見た。私はいつもの、外泊の許可を求める時の顔をまじまじと見つめた。今までは気づかなかったし、今回だけなのかもしれないけれど、心なしか頬が紅潮しているような気がした。私の知らない顔。私のしたことのない顔。そういえば、私は彼女の言うところの「親友」の性別すら知らない。
そのことを尋ねてみると、彼女は顔をはにかませて、雰囲気に滲む照れを隠しもせずに言った。
「お、男の人だよ……。私の……大事な人」
衝動というものは、過冷却された水のように、ほんの少しの衝撃で空想から実行に変化するのだと思う。その瞬間、「それ」……いや、もう私は「それ」と形容せずとも、その正体をしっかりと把握していた。認めたくなくて逃げていただけだった。
私を蝕んでいた「殺意」は一瞬で頂点に達して私の中を駆け巡った。これ以上私から奪うな。これ以上私を超えるな。そう思うだけで彼女の顔は嘲笑しているようにも、憐れんでいるようにも見えた。そしてそれが私をさらに苛立たせた。「殺意」が私をそそのかす。「今しかない」、と。
私は妹を玄関で押し倒し、馬乗りになって首に手をかけた。そのまま一気呵成にことをなそうとして、躊躇した。妹の顔を見ると、彼女はいたって冷静に私の顔を見つめ、問いかけてくる。
「お姉ちゃんは、私のこと嫌い?」
「っ……」
言葉に詰まる。答えはわかっているのだ。それをすぐに言えないのは、それが今の状況にそぐわないからだった。私は少しだけ逡巡してから、本当のことを言った。
「……好きよ。あなたは、私のたった一人の家族なのよ。私はあなたを守りたかった。かごの中の鳥のように、なんでも私が与えて、可愛がりたかった」
私はあなたの姉なのだから。
「けれど、あなたは遠くへ行ってしまう。たった数年のうちに、私の方ができないことが増えたわ。そして最後に私ができていたことも、いつの間にか奪われていた。
もう私には何もないのよ。あなたのことをどれだけ愛していても、私からすべてを奪った憎しみが、殺意がそれを上回るのよ。こんなのはもう嫌だ。あなたと離れたくない。あなたが動かなくなれば私はいずれ追いつけるわ。もうこれしかないのよ。もう、これしか……」
妹は私の頬をそうっと撫でた。私の髪が、カーテンのように床に垂れて周囲を遮る。私と妹の顔だけがその中に取り残された。
「お姉ちゃんはきっと、このまま永遠に差が開いてゆくのならいっそのこと殺してしまって、楽しかった日々を思い出の小箱に閉じ込めておきたいんだよね。もしも立場が逆転していたら、お姉ちゃんは、私に殺されることを受け入れる?」
「……ええ。受け入れるわ。だって私は、あなたを、唯一の家族を愛しているんだもの」
私の言葉は、今この瞬間妹を殺したいがためのその場しのぎの言葉ではなくて、嘘偽りのない本心だった。私は彼女になら、きっと殺されてもいい。
「そっか。なら、いいよ。私のことを殺しても。私もお姉ちゃんのことが好き。お姉ちゃんのためなら死んでもいい。私とお姉ちゃんは、多分同じ考えをしてる。そうでしょ?たとえ死んでも私たちは一緒なんだよね。いままでありがとう、お姉ちゃん。さようなら」
妹は少しの間考えてから告げた。それから、少し苦しそうにしながら優しげに微笑んだ。私の言葉が本心だということが伝わったらしかった。不思議と、私はなにも思わなかった。あらゆる感情の波が消え失せ、ただただ淡い安堵だけが凪いだ心に佇んでいた。私はありがとう、とつぶやいてから、かけている手に力を込めた。頬には一筋、何かが零れ落ちたような気がした。
すべてが終わった後に、私はこの文章を書いている。あれ以来編集者や、インタビューの主催者からのメールはやって来ない。私は暗室にこもったまま、日々を過ごしている。全ては思い出の小箱にしまわれ、見返すことはできても戻ることはできない。私の隣には、もう喋らなくなってしまった妹がひっそりと座っている。
かつて私は孤独を恐れていると言った。けれど今、私は怯えていない。彼女は温もりこそ感じられなくても、確かにここにいるのだから。私に寄り添っているのだから。今でも自分の行動に後悔はない。ただ、自分の行動のすべてが「罪」であったことは多分に自覚している。
新たな著作は書かなかった。編集者には体調が優れないから長い休みをくれとお願いしたけれど、「あの日」から一か月が経った今、とりあえずこのことだけは書いておこうと思い立ち、筆を走らせている。この文章をいつか出版するかどうかはわからないけれど、少なくともあの日々の感情の動きや私のしたことは詳細に残しておかねばならない。
だから、私はこの「独白」において、誰にも語ることのできない一切の出来事を、慎重に、正確に記さねばならない。書きながら「こうでない未来」を夢想するのだ。
そして、自分の「罪」を自覚するのだ。無論、これは作品なのだからどこまでが本当なのかを聞く、というのは野暮であることをご承知おき願いたい。
差し当たって、誰かにこの作品が読まれるかもしれない日のために、そしてその時にこれが私の面白みのない日記ではなく「文学」の一角をなすために、私は白紙の原稿の一文目にこう書き記している。
「私には妹がいた。」と。
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