ここまで書ききってから、私は大きく息を吐いた。

傍らに座っている、私の愛しい「それ」に向かって微笑みかける。暗室でこうして除湿モードにしておけば、きっと大丈夫だろう。

 無論、壊れてしまうのは嫌だから、「それ」を出しているのはこの「独白」を書いている時だけでそれ以外の時は氷を張った浴槽に入れているけれど。そろそろ防腐処理するべきなのかもしれない。時間があったら調べておこう。


 文章を読み返しながら、不器用で歪んだ姉妹だったなとつくづく思う。きっと、もっといいやり方はあったはずなのに。たった一つの言葉で済むはずなのに。どれだけ愛があっても憎しみが勝ってしまうから殺すだなんて、早とちりだったなと思わないこともない。


 けれど、それもまた一つの形なのだろう。現に私たち姉妹は、死の間際になってそれを承認しているのだから。

いや、だからこんなことになったとしても、彼女は決して文句を言えまい。



 私と姉のことを話すには、どこまで戻るべきだろうか。


生まれた時のこと?両親が死んだ日?どれも違う気がする。


 物心ついた時から姉はそこにいて、たまに喧嘩もしたけれど、大抵優しく微笑みかけてくれるのだった。

私はそんな姉が大好きだった。両親よりも姉といた記憶の方がはるかに多い。以前友人にこの話をしたときは、もはや偏執的だね、と言われてしまったけれどそれでもかまわなかった。


 姉が小説で賞を取ったらしい‼私は飛び上がって喜んだ。今もさして小説に興味はない。ただ姉の書いたものなら別だ。姉は身内に作品を読まれたくないみたいだったけれど、私はすぐにその本を買って何度も何度も読み返した。


 そうしているうちに両親は死んだ。中学に上がるか上がらないかくらいの頃だったと思う。姉は深いショックを受けていない、とは言いつつも幾分か沈んでいるように見えた。

 このころから少しずつ作品に翳りがあったように思う。思うように書けず、私と衝突することも多かった。


私はというと、不謹慎にも「あぁ、これでやっとお姉ちゃんと二人きりだな」と思ったことを覚えている。姉と喧嘩するたびに私の心は締め付けられた。悲しかった。


 だから、私はこの時を機に姉の助けになろうと決めた。これまでまったくやって来なかった家事を始めて(最初の頃は失敗ばかりだったけど)、迷惑をかけないように学校では優等生を演じた。

 そして、いつの日か姉の小説の助けになるために、いろいろな本をこっそり読んだ。こっそり読んだのは、姉をびっくりさせてやろうという魂胆からだった。

 結局、これが私たちの「ねじれ」を生んでしまったわけだけれど。


 私は、自分が思っているよりもずっと要領が良いらしかった。姉の助けになろう、と決めた直後からほんの少しの努力で、私は周りの誰しもが憧れる「優等生」になった。でも私は、そうした評価はどうでもよかった。


 それから二年ほど経っただろうか。姉はいよいよ本を書くことに行き詰っていた。日に日に焦りがにじみ出ているようだった。私はそれを見て心底心配していた。同時にほくそ笑んでいた。これでようやく姉を助けることができる、と。そうしてある日、ついに私はこう言ったのだった。


「お姉ちゃん。ここ、変えたほうが良くない?」


 それから姉が何を考えていたかは、想像しか出来ない。ただ、私の助言を求めるようになっていたのは間違いなかった。私はひたすらに幸せだった。こんな日が一生続いて行けばいいと思った


 そしてその頃から、幸せな日々とは裏腹に姉は少しずつ私から目をそらすようになった。

 こちらを向いている時でさえ、明らかに怯えや恐れが見て取れた。私はこの時、ほんの少しだけ「反抗」がしたかったのだと思う。


 私のことをわかってくれない姉への苛立たしさが募った。だから私は「親友ができた」と嘘をついた。本当はそんなもの出来てなどいなかった。時折家を空け、適当に時間を潰した。今更遅いけれど、私はここが境界だったと思っている。ここならきっと引き返して、もう一度「正しく」始められたのだろう。


 結論から言えば、姉は私をより見てくれるようにはなった。「姉妹だけの大切な時間」(そう言うととても照れくさい)は増えた。

 でも、姉の目から怯え、恐れが消えることはなかった。そして、いつもどこか苦しそうだった。


 獣じみた目で私を見ることも増えた。姉自身は気づいてなかったみたいだったけれど、私にはそれが「殺意」であることに気づいていた。私はその目を見て、恐れも怒りも湧かなかった。ただ、少しだけ悲しくなった。私と姉の間には、どうも埋めきれない溝が生まれてしまったらしかったことと、姉がどうしようもなく苦しそうにしていることに。


 どうすればいいのか考えた時、(多分姉の目に感化されて)同じ考えに至ったのだろうと思う。

 だから私は、姉を「止める」準備を始めた。彼女を開放するために、できるだけすぐに効いて、苦しくないものがいい。

 注射式のほうが手早いだろうか。保存方法はどうするべきか。お姉ちゃんが止まったあとはどうしようか。冷やした方がいいのかな。それとも乾燥させるのかな。そうやって少しずつ、私は計画を建てていった。


 私は決して自分から動くつもりはなかった。姉がどう思おうと、私は「動いている」姉と生きていくことが最も重要だった。


 そんなある日のことだった。ついにその日がやってきた。「インタビュー」から帰ってきた姉は「殺意」に満ちた目で私を見た。けれどその表情は今にも泣きだしそうなくらい苦しげだった。私は姉を解放しなければいけない、という使命感にかられた。姉を私に向かわせるにはもう少しだけ後押しが必要だった。


「お、男の人だよ……。私の……大事な人」


 だから私は、きっと姉が一番聞きたくなかったであろうその言葉を言った。そして、姉は私を押し倒し、首に手をかけてからじっと見つめた。その目には怯えも恐れも宿っていなくて、私は少し安心した。


 それから姉は、私に思っていることをすべて話した。ついぞ私に頼っていたことは言わなかったけれど、もう隠すような素振りは見せていなかった。


お姉ちゃんも同じだったんだね。私と離れたくないから、時を止めたいんだね。私だけの我儘じゃなくてよかった。罪悪感に苛まれて一生をお姉ちゃんと過ごすなんて私にはできないもの。本当に良かった。


 これで心置きなくお姉ちゃんを「止められる」。


私はそっと姉の柔らかくて暖かい頬に触れた。これが最後の「温もり」なのかな、なんて考えると少しだけ寂しい気がした。

 そして声をできる限り抑えながら、今からしようとしていることを悟られないようにゆっくりと口を開く。


「いままでありがとう、お姉ちゃん。さようなら」


思いをすべて告げると、姉は私にありがとう、と言ってから手に力をこめようとした。


その瞬間に私は、これまでポケットに入れていた注射器を姉の首筋にぷすりと刺した。姉はなにが起こったかわかっていないようだった。彼女は最後に私の名前を囁いたような気がした。私の上に覆いかぶさるようにして倒れた姉、いや「それ」は、既にこと切れている。私はそっと上体を起き上がらせてから「それ」を抱きしめて頬を寄せた。頬には涙が流れていたけれど、それがどちらの涙だったのか、私は今でもわからない。


それから私は、大量の氷を買い込んで、学校を退学した。理由は「姉が地方に就職した」ということになっている。学校にも家庭の事情は知られていたから、大して疑われもしなかった。

 そして二人きりになった暗室でそっと姉のパソコンを開いて、「独白」を書き始めた。あの時のこと、そして「動いていた」姉のことを思い出すと、今でもため息が漏れ出ることがある。あるはずのない、「他の選択肢」に思いを馳せる。


だからね、本当は全部わかっていたんだよ。


 お姉ちゃんが私にしていたことも。私がそれを望んでいたんだもの。

 小説なんて読まないなんて、もちろん嘘よ。大好きなお姉ちゃんの書いたものを読まないなんてことあるわけないでしょう。お姉ちゃんに頼られるようにいっぱい勉強したわ。

 私はお姉ちゃんを助けたかったの。二人で支えあいながら、毎日笑顔で生きていたかっただけなのよ。どんなお姉ちゃんであっても私の大好きで尊敬している、世界一のお姉ちゃんだわ。


それを言わなかった私も悪かったかもしれないけれど、でもやっぱりこんなところまできてしまったのは、取り返しのつかないところまで取り違えてしまったお姉ちゃんが悪いと思う。



けれど、それも今となっては詮無いこと。だって時はもう戻らないもの。仕方のないことでしょう?


私は、いつもそう呟いてから頭の中からそんな考えを追い出す。そして「それ」にもう一度微笑みかけてからリビングルームへ出た。

 カーテンを勢いよく開く。途端に眩い陽光が私に刺さって、思わず目を細めて手で日を遮った。


昨日の夜に見たニュースでは、殺人事件を二件やっていた。一日に二件だから、年間で七〇〇件くらいあるのかな。そう聞くと殺人犯って存外多い。でも、一億人の中って言われると少ないな。

 まぁ私はその数少ない人のうちの一人なわけだけれど。そんなことを思いながら、ようやく日光に慣れてきた目で窓の外を眺める。


 太陽は燦然と煌めいていて、大きな入道雲がゆっくりと右から左へ蠢いていた。蜃気楼が遠い向こうで揺らめいている。外界の熱気がこちらまで伝わってきそうだった。



 もうじき、夏が来る。

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独白 舞風つむじ @tumuzi_maikaze

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