全てのきっかけは、妹のたった一言だった。

 私はちょうど新しい作品を書いていて、最後のクライマックスシーンを書きあぐねていた。妙案が思い浮かばず、どう書いてもしっくりこない。カーテンを閉め切った暗室の中で私が白く光るディスプレイを睨みながら腕を組んで唸っていると、かちゃりとドアが開いて部屋に光が差した。妹がお茶を持って来てくれたらしかった。


「お姉ちゃん。ここ、変えたほうが良くない?」


 私が悩んでいるのを察したのか、彼女は私のパソコンを覗き込んで軽く考えてからとんとんと私のディスプレイを叩いた。


「ここ主人公が相手の本心に気づくところでしょう?なら、もっと感情的に怒るんじゃない?」


 妹の言うことにも一理あるように感じた。少なくとも私は、この手の状況に直面したことがない。私の感触だけを信じるのもいかがなものか、とは思う。しかし私は曲がりなりにも長い間この職業を続けているし、妹の感触が正しいとも限らない。

 ただ、最近の私は少しずつ売り上げが落ちていることも実感していた。もともと現役女子大生作家としてデビューした私は、その特殊性で知名度があったようなものだったから大学を卒業した以上はそうなるのも仕方ないとは思っていた。


 その一方で、同時に焦燥感もあった。妹が大学生になればいよいよ私たちが別々に生活を始めるときも近づいてくるだろう。そして両親の貯金はもちろん無尽蔵ではないし私が占有するものでもない。いずれ彼女と別れて暮らすとなれば、このお金も二人で分けなければならない。その時のために少しでも貯金は多く残っていた方がいい。向こうはわからないけれど、少なくとも私の収入源は私だけだ。

 記憶では私の収入を継ぎ足し続けていたのに、両親が遺してくれていた半分程度しか残っていないはずだった。そしてここ最近、その減り方は以前のペースよりも明らかに早かった。これから妹を大学に通わせることも併せて考えれば、どうも心もとのない金額だ。 

 そして、これらの事実は私の収入がそんなものであるということを私に突き付けていた。

だからこそ、何か変えなければいけないと思って私はこれまで書いてきたいくつかの作品と比べて展開を変えてみたり、描写技法を変えてみたりといくらか変更を加えていた。結局どれも満足できていなかったし、自分が納得できていなければいい作品になるはずもないとは思っていたのだけれど、とにかく何か作業をすることで焦りや諦めといったやり場のない感情を紛らわす意味もあった。

 それでも、そんな風にしか感情を消化できない自分へのもどかしさが私の心を波立たせていた。


「うるさいッ。関係ないでしょ」


 頭に血が上って、思わずかっとなって叫んでいた。けれど私はすぐに我に返って、妹に謝った。というのも私は私に関わる唯一の人間である妹を怒らせることへの、正確には彼女との仲が悪くなることによって世間への道が閉ざされて孤独になることへの恐怖があった。

 彼女は一瞬驚いたような表情をしたけど、私の唇が震えているのを見て、慌てて謝ったのを聞くとすぐにその端正な顔に柔和な笑みを浮かべた。


「そう。わかった。邪魔しちゃってごめんね。お仕事、頑張ってね」


 そう言い残して、妹はそっと私の部屋を出ていった。

 私は安堵して、再び闇に満たされていく天井を仰ぐ。私のほうが年上なのに、いつも迷惑をかけている気がしてくる。後で謝っておこう、ついでに妹が好きなアイスクリームでも一緒に買いに行ってあげよう、などとデスクチェアーでくるくる回りながら考えた。


 とりあえず、ものは試しだ。悩んでいた所は妹の言ったとおりに変えてみようと決心した私は、深く息を吐いてから再びかたかたと続きを打ち始めた。


 そうして完成した私の新作は(私が頑張って変えてみた作風の大半は、結局編集者によって書き直し命令が出たから元に戻したのだけれど)、思いのほか反響があったようだった。

 復活、とか再興、とか大々的に宣伝がされるくらいには人気を博した。いつもよりずいぶんとたくさんお金も入ってきたし、編集者からのメ―ルにも珍しく称賛の言葉が書き連なっていた。

 ある日、(それは発売されてから数か月ほど経っていたように思う)妹が学校から帰ってくると鞄も置かないまま私の部屋に来て、書店で店頭に置かれていたと、スマートフォンで撮った写真を片手に嬉々として語ってくれた。


「よかったねえ」


 そう言いながら、私は喜んでいる妹を見てどことなく現実味がなかった。

 けれど、現実味がないなりに、私は自分の心が少し躍っていることに気づいていた。久しぶりに心が満たされたように感じて、明日はどこかに遊びに行こうか、などと柄にもなく考えてしまっている。

 ただ、私にはどこが良かったのか正直よくわかっていないのも事実だった。気になった私は、パソコンでSNSを開いて自分の作品の評価を調べた。思えば、このときの行動から私は少しずつ狂いだしていったのかもしれなかった。


「全体的にいつもより読みやすかった気がする」

「面白かったです。特に最後のリアリティがあってとてもよかった」

「これまで作風が違っていて面白い」

「最近のものと比べると見違えるほど良くなった」

「終始微妙といわざるを得ないが、ラストシーンは別。最高だった」

「悪くはないけど昔の方がもう少し勢いがあった気がする」

 等々。


 私はしばし何も言えなかった。食い入るように画面を見る。無論私が書いている中で気に入っていたところもちらほらと評価されていたけれど、どう見ても妹の考えを採用した最後のシーンばかりが褒めそやされていた。


 カーソルが小刻みに揺れるから手を見てみれば、ふるふると震えている。呼吸が荒い。心にどす黒い感情が押し寄せ、私の心を染め上げていた。

 私が感じていたのは決して憎悪ではなかった。憎悪が全くなかったというわけではない。妹の方が称賛されていて私が嫉妬し、羨望していたのは確かだった。

 それでも、私の心中の圧倒的多数を占めていたのは間違いなく愉悦と恐怖だった。売り上げが伸び悩んで焦りを感じていた私は、この数か月間に称賛されたことでずいぶんと承認欲求が満たされていたように思う。

 他人の手柄ではあるけれど、私が言わない限りこの作品の称賛は私のものだし、この幸福感も誰にも渡したくなかった。


 彼女は自分の出した案が絶賛されていることに気づいただろうか。いや、そもそも彼女の言ったように変えたことすら話していないはずだし、私の本を読んでいることも見たことがない。きっと大丈夫だろう。そんなことばかり気にかけていた。今感じている愉悦は、私か、あるいはこのことに気づいた彼女が一言いえば一瞬で崩壊してしまう。そういう意味で「恐怖」していた。


 そんな日々を過ごしながら、私の頭の中ではそれ以外にも様々な感情が渦巻き始め、徐々に心を蝕んでいった。


万人に備わっているであろうそれなりの射幸心。妹の一言がここまで評価を得たことへのもどかしさ。自分の売れ行きが伸び悩んでいることへの切迫感。作品が評価されて、疑似的に満たされてしまった自尊心。そして、もやもやとした激情。


 もやもやとした激情、というのは一見矛盾しているかもしれないけれど実際にただただあらゆる衝動に身を苛まれているような感覚で、なんとも形容しがたい曖昧模糊としたものだった。とりあえず、私はこの感情を「それ」と呼ぶことにした。


 これらが一つの邪念に少しずつ侵食され、やがてまとまってゆく。「それ」だけは変わらずに心の中に残っていたけれど、結局自分でもこの感情はよくわからなかった。自分がこんなこと思うはずがない、そう妄信していたからかもしれない。だから、とりあえず私は「それ」については保留することに決めた。そして、もしも私が誰にもこのことを喋らず、妹すらこのことに気がつかないのなら。彼女の観察眼、感性が今後も正鵠を射ていて、これからも私の助けになるのなら。そして、それが私の心を満たすなら。そんな仮の話を話ばかりが頭をよぎった。

 未来の話は置いておこうと私は決めた。だって結局、それはその時にならないと分からない。今考えたところでどうしようもない。だから、私は私に「いま」どうするかを問う。


あなたは、いや、私は今、躊躇なくその「罪」を犯すか?と。


 そして私の答えは明白だった。あまりにもわかりやすくて、そしてばかげているので私は自分のことをせせら笑う。

 それから、声に出して「もちろん」と呟いた。

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