ゴミと乙女 二

 そもそも、なんで司馬懿しばいなんだ。

 この人は私の妄想である。姿かたちは誰でもいいはずである。

 昭和の少女漫画にでてくるような、金髪碧眼の美男子でいいじゃないか。

 この現象は、子供のころに見えない誰かと喋っていた名残みたいなもんだ。歳をとってもストレスがたまったときにあらわれたりする、アレだ。ストレス解消におしゃべりしたくなって、頭のなかに召喚する話し相手だ。

 だったら、誰を召喚するかどうかは、私の勝手でいいはずじゃないか。周瑜しゅうゆさまでも、趙雲ちょううんどのでもいいじゃないか。なんで馬面のじいさんが出てくるんだよ。

 ああ、このあいだ、兄貴の本棚から勝手に拝借して読んだ三国志の漫画がいけなかったな。読み終えたところが五丈原の戦いだったもんな。

「なんだ、自分が無性愛者みたいなことを言っておきながら、話し相手は美男子がいいのか」

 いやなところをつっこむんじゃないよ、司馬懿。ってか、ついてくるな。あっちいけ。

「さっきから、司馬懿、司馬懿と気安く私の名を呼んでくれているがな、懿は名だ、名はいみなだ、諱とは忌み名だ。気安く口に出していいもんじゃない。私を懿と呼んでいいのは、父母や上司などの目上のものだ。ついでに、年寄りにたいする敬意も、ちゃんと持って接してもらいたいな」

 そりゃどうも、すみませんな、司馬……。

仲達ちゅうたつ

 司馬仲達さん。

「先生、な」

 司馬仲達先生……。

 ああ、まったくうるさい、面倒くさい、どっかいけ。五丈原で、諸葛孔明しょかつ こうめいの人形にビビってケツまくって逃げたときのようにどっかいけ。まったく、さっきからつまらない理屈をならべやがって。あっちいけ。どっかいけ。

「まあ、そう邪険にするものじゃない。年寄りは大切にせんとな」

 年寄りにもよるわ。人のやることにケチばかりつけている年寄りを大切にしたいとは思わないね。

「年寄りなんてものは、だんだん面倒ごとをさけたくなるものだ。長く生きていると年下の者たちが、陰で言っている嫌味の声も聞こえてくる。ジジイは目障りだ、おいぼれがいつまで社会にしがみついているんだ、とな。聞こえてくると、まだまだ自分はやれる、と証明したくなる。若いもんにケチをつけて少しでも自分ができる人間だとわからせてやりたくなる。そんなことをしているうちに、さらにまわりからうとんじられる」

 亡くなる間際まで権謀術数のかぎりをつくしていた人にしては、行動理念の根幹がずいぶん庶民的だな。そりゃあ、疎んじられてもしょうがないよ。

「うん、私も若いころは、年寄りを大切にしていた。年寄りをいじめる大人が嫌いだった。ところが、大人になると、今度は年寄りが目障りになった。はやく隠居しろクソジジイ、なんて思ってな。そして年寄りになると若いもんに反発したくなる、社会に、自分の年齢に、あらがいたくなる」

 そんな理由で孫の司馬炎しば えんが皇帝になる土台を、せっせと築いていたとしたら、三国志ファンは幻滅だよ。

 そんなあんた以外の年寄りなら、大切にしてやる気にもなるんだけどね。

「年寄りもゴミと同じだな。いらなくなれば用済み。年金泥棒、医療費泥棒とさげすまれる。歳をとってもいいことはないよ」

 しらん、その時がきたら考える。っていうかあんた、息子たちから、けっこう大切にされて亡くなったんじゃなかったの?

「ああ、あれね、陳寿ちんじゅえんにおもねったんだな」


 当初、家の周りだけのつもりではじめたゴミ拾いだったが、目につくゴミにいざなわれるように活動範囲を広げ、二カ月ばかりたった今では、町内ほぼすべてが、私の清掃活動テリトリーだ。

 一カ所綺麗にしても、別の場所にゴミがたまってくる。そこを片付けても、さらに次の場所が、という具合に、けっして終わることのない無意義とさえ思えてくるほどの戦いを、ひたすらつづけているのである。

 そりゃあ、ストレスで司馬懿、もとい司馬仲達先生があらわれたのも、ある意味では自然の摂理なのかもしれない。

 田舎の幹線道路の歩道は広い。その広く手入れをする人もいない歩道には、そこここに雑草がはえているだけでも相当見苦しいのに、それにつけてくわえてモザイク画のようにゴミが散らばっている。

 このあたりの住民は、徒歩で移動する場合は、だいたい住宅地にある細い旧道をつかう。ゆえにこの幹線道路を歩くひとは少ない。道にひとけがないということは、雑草の繁茂とゴミの放置を助長する。

 私はトングで栄養ドリンクの空きビンをつまみ、ゴミ袋に入れる。一連の動作はもはやなんのとどこおりをみせず、プロの手際と自負したくなる。

「なあ、おい、信号のこっち側にはゴミがたくさん捨てられているのに、向こう側にはほとんど捨てられていない。これはいったいどういう事象かな」

 どういうもこういうも、簡単な話だ。赤信号で車が停車ちゅうに、乗ってるアホが窓からゴミを投げすてるのだろう。

「そんなことは、私にもわかっている。年寄りだからといって、そこまで耄碌もうろくはしとらんよ。馬鹿にするな」

 へいへい、もうしわけありませんでした、おじいちゃま。

「私の言っているのは、停車ちゅうにゴミを投げすてたくなる人間心理だ」

 さあ?ゴミをポイ捨てするような人間は低俗なのだ、品性というものをもちあわせていないのだ。そんな厚顔無恥で無知蒙昧な人間の心理など知ったことではない。

「いかん、それはいかんぞ。お前はゴミのポイ捨てというひとつの社会悪を正そうとしている。ならば、ポイ捨てをする者の心理を分析せずして問題が解決することはない」

 いや、べつにそこまで高尚な志でやってるわけじゃないんだけれど。

 ゴミのポイ捨てをする人間なんて、なにも考えていないんでしょうよ。ポイ捨てしやすそうな場所がある、ゴミを捨てる。ただ体を動かしただけの話だ、それだけだ。何も考えていない以上、いくら分析したところで、心理を読み解くことなど不可能でしょう。無意味なんだよ。

「しかし、信号のこちらとあちらでゴミの捨てられ具合が違うということはだよ、捨てるほうも捨てる場所を選んでいるわけだろう。それは思考の範囲には入らないのかね」

 車がとまった、窓をあけよう、はい、捨てよう。そんな行動は思考しているわけじゃなくて、何も考えずに体を動かしているだけだろう。そんなの思考のうちに入るのかね。

「入るだろう」

 入らんだろう。

「いや、入る」

 いや、入らん。

 実に無益な上にレベルの低い押し問答がはじまったのを機に、私はまた体を動かしはじめる。

「日頃、普通の人間のふりをして生きている大人たちが、――お前さんの言う通りならだよ――無意識のうちにゴミをポイ捨てする」

 そこにはきっと、善悪の判断すら機能してないのだろうね。

「まったくなげかわしいものだ」

 だいたい、ポイ捨ていけない、なんて言われたって、脳みそのたりない人たちが、素直に言うことをきくはずがない。

「じゃあどうするね。ポイ捨てする奴は馬鹿だ、死ね。とでも看板に書いておいておくかね」

 うん、それいいかもね。

「いや、愚者にだって感情はある。いや、愚者だからこそ感情で生きているのと言うべきか。そういう愚者の感情の方向性を考察すれば、死ねと言われて悲嘆するよりも、むしろ反発をまねくんじゃなかろうか、という結論に達するね」

 間違いを指摘すればするほど、余計にポイ捨てがふえてくる、とでも?

「かもしれんな」

 なんかそんなクズどもの思考がどうのこうのと、考えるだけで腹がたってくるよ。

「行為に倫理が内在していない以上、いくら指摘したところで行為者の心が痛むことがないのだな」

 思いやりがないんだ、そいつらは。思いやりのない人間が大手をふって歩いているような世の中は間違っている。

 そう、この世は間違いの積み重ねでなりたっている。

 私はよく、人から、細かいことばかり言っていると嫌われるぞ、と非難される。だが、ゴミを捨てたり、騒音を出したり、大声をだしたり、そういう細かなことを気にしない人は、思いやりも育たないんじゃなかろうか。思いやりとは、気づかいから生まれるものであるからだ。大雑把、無神経、そんな人間から人としての優しさを、私は感じたことはない。ましてや、ゴミを道端にすてるような人間が他人にたいする優しさを持ちあわせているはずがないのだ。そんな人間が異性とつきあい、結婚して、子供を持つ。間違っている、世の中は間違っている。

「さて、どうかな」

 なんだい、そのふくみのある物言いは。

「その間違っている、というのが人間の本質なのではないかね」

 たとえそれが人間社会の摂理だとしても、私はそんなものは認めたくはないね。

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