第9話胸の痛み

 誰もいない部屋に置き去りにされ、

傷の痛みに苦しんでいる信長のぶながの枕元に

誰かが近づいてくる足音がした。


「お乱……?」

とかすれた声でつぶやきながら見上げた信長の目に

かつての愛人(男)である万見仙千代まんみせんちよの姿が

飛び込んできた。この男は小姓として仕え、殊の外

寵愛を受けたが荒木村重あらきむらしげの立てこもる有岡城に

攻め込んだ際に戦死していた。


「上様、お久しゅうございます。

 一緒に黄泉の国にまいりましょう」

と言いながら仙千代せんちよは主君の方に

手を差し出した。その顔は生前と変わらず

若々しく美しかったが、信長は


「いやだ! 今のわしにはおまえよりもっと

 愛している者がいる!」

と叫んで拒絶した。そこに例の悪魔が

お手玉をしながら現れると


「これこれ、死神殿、わしはこの者ともう少し

 戯れていたいのだ。しゃしゃり出てこないでくれ」 

と言って仙千代の姿をした者を追い払った。


「死神だと!? あれは仙千代じゃないのか?」


「ええ。人の獲物を横取りしようとするなんて

 まったく図々しいたらありゃしない」

などと毒づきながら、相変わらずお手玉をしていた

悪魔の手から小さなまりがこぼれ落ちて

信長の口に飛び込んでしまった。

それをかじったとたん、得も言われぬ甘みが

口の中いっぱいに広がって弱りきった体に

再び活力が戻ってきたのを信長は感じたが、

礼を言おうとしたときにはもう悪魔の姿は消えていた。



 森蘭丸もりらんまること森おらんたちを乗せた

ポルトガル船はかなり大きなものだったが、

荒れ狂う海の上では風に舞う枯葉も同然で

海の墓場と呼ばれて恐れられる巨大な渦に

向かってどんどん押しやられていった。

舵を取っていた水夫は日本語を話せたので


「この船はもうすぐ沈む。せめて天国に行けるように

 めいめい祈りを捧げるがいい」

と重々しい調子で告げた。


「何が天国だよ! おまえら、上様が耶蘇やそ教(キリスト教)の布教に

 寛大なのをいいことに、日本人を海の向こうに

 売り飛ばしていたなんて最低だな! 

 誰がそんな連中のあがめる神なんかに従うものか!」

と抗議の声をあげたのは森おらんであった。


「卑しい異教徒の分際で生意気なガキだ!」

と激怒した水夫は強風で折れた帆柱を

振りまわしながらお乱に襲い掛かった。

お乱はひらりと身をかわし、

台所の包丁片手に応戦した。ところが

大きく飛び跳ねるたびに胸に鋭い痛みが

走るので思うような動きができずに苦戦を

強いられた。


「ちくしょう。この胸の痛みさえなければ、

 こんな雑魚、すぐに成敗できるのに。

 さっき捕らえた酔っ払いどもを相手にするのとは

 わけが違う。一体おれの体に何が起きているんだ?」


 実は奴隷商人がかけた粉薬によって

不完全な女体化がじわじわと進んでしまい、

お乱の胸は今や風船のように巨大化していた。

痛みも厄介だがゆさゆさ揺れる豊かな胸は重くて

戦闘の邪魔にしかならない。お乱はとうとう甲板の一番端まで

追い詰められ、もはや背後の海に突き落とされる

のは時間の問題と思われた時、森坊丸が


「兄さん、これを使って!」

と言いながら信長に贈られた名刀、不動行光を投げてよこした。

高価なものなので転売する目的で船員が分かりにくい場所に

隠していたのをやっとのことで見つけたのだ。

この名刀をお乱が受け取った瞬間、その刃先から

雷のように強烈な電流があふれ出して水夫の体を直撃した。

倒れて動けなくなった水夫は卑屈な表情を浮かべて

命乞いしたが海に投げ込まれてしまった。

 その後で、小姓の一人が


「倒したはいいけど、誰が舵を取るのさ?」

という当然の疑問を口にしたが、


「もう沈むんだから関係ないさ」

森坊丸もりぼうまるが吐き捨てるようにつぶやいた。

それを聞いた森力丸もりりきまる


「せっかく奴隷商人どもを倒して

 自由の身になったと思ったのに

 こんなところで死ぬなんて嫌だ!

 上様とともに故国に帰りたい!」

と悲痛な叫びをもらした。弟の嘆きに心を

動かされたお乱は


「あきらめるのはまだ早い!

 積み荷を捨てて軽くするのだ!」

と叫ぶと船底に駆け下りていった。

またたくまに財宝がぎっしり詰まった

大きな樽を抱えて戻ってきた

お乱は迷わずこれを海に放り込んだ。


「おれたちも手伝うよ!」

と急に元気になった小姓たちは

縛り上げた奴隷商人や乗組員たちを海中にどんどん

投げ込み始めた。興奮した少年たちはがれきの下から

安田作兵衛やすださくべえを引きずりだすと、これも海に沈めようとした。


「待て! 恩人であるおれを殺すな!

 おれの力がほしくはないのか!」

とわめく作兵衛に小姓たちは


「不吉な力を使う魔性の者を生かしておくわけにはいかない。

 乱につきまとう変質者め、海の藻屑になるがいい」

と宣告した。


「待てったら! おれの異能力は生まれつきのものではなく、

 もとはおまえらと同じふつうの人間だった。昔

 仕事にあぶれてすきっ腹を抱えて寝ていた時に、

 あばら家の壁を通り抜けて大きなカエルが

 侵入してきたので捕まえて

 食っちまったがその時以来そいつのもっていた

 瞬間移動の能力を使えるようになったのだ。

 もしおれの命を奪わなければその見返りに

 おまえらを安全な場所まで脱出させてやる」


「あんた、よくそんな気味が悪いものを食べたりしたな。

 だが役に立ちそうだから殺すのは後回しにしてやる」

とあきれながらもお乱は作兵衛の願いを聞き入れたが、ついでに


「二度とおれに変な興味を抱くなよ」

と釘をさすことも忘れなかった。

そして作兵衛と小姓たちは手をつないで輪になったが、


「お乱! どこにいるのだ!」

と信長がお乱を呼ぶ声が聞こえてきたので


「ちょっと待つのだ! 一人抜けている!」

と叫んでお乱は輪から抜けて主君の元に

いそいだ。弟たちもあわてて後に続いた。


「上様、早く逃げましょう!」

というお乱の呼びかけに信長は


「お乱、わしはもうすぐ死ぬ。わしを

 愛してくれているなら最期にもう一度抱いてくれ」

と弱々しい声で哀願した。

 頬を赤らめ、涙目になって哀願する主君を見たお乱の弟たちは


「上様が」


「恋する乙女になっている」

とそれぞれつぶやいた。主君の頼みに驚いたお乱は


「何をおっしゃるんです!?

 今はそんなみだらな行為に励んでいる

 場合ではありませんよ!」 

と大声で叫んだが、その白い肌は恥ずかしさに

真っ赤になっていた。奴隷商人に殴られ、

顔を腫らした主君が


「わしを愛しているというのはうそだったのか?

 本当は弥助のことを想っているのだろう。

 いつだったか、わしが弥助を押し倒した時におまえが

 血相を変えて邪魔をしたことがあったよな。

 わしはてっきりおまえがやいていると思って喜んでいたが、

 今思うと必死で愛する者を奪われまいとしていただけ

 だったのだな。天下も取れず、愛する男の

 心も手に入れられなかったわしは

 むなしく死んでゆく定めなのだ」

などと哀れっぽい声で恨み言をつぶやいているのを

これ以上聞いていられなくなったお乱は


「そんな、誤解です。上様のお体が心配だからこそ

 お断りしたのに……」

とつぶやきながら身をかがめて

枕元に近寄っていった。しかしその直後、

つる草のように伸びてきた腕にからめとられて

お乱は布団の中に引きずり込まれてしまった。

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